On the Shoulders of Giants

政治思想史の古典紹介

ルソー『社会契約論』:一般意志と人民主権

Jean-Jacques Rousseau, The Social Contract, 1762

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今回はルソー『社会契約論』の概要をご紹介します。
今回読んでみて、ホッブズロックとは決定的に違う理想論的な考え方の本なんだなとあらためて感じました。ちょっと理想主義的すぎて実現不可能と思われる部分もあるかと思いましたが、現代まで続く政治思想の基礎に大きな影響を与えていることもうなずけます。
日本でも明治期に中江兆民などによって『民約論』として翻訳され、自由民権運動にも大きな影響を与えた大著です。
なお、今回の引用元はすべて、『社会契約論』(中山元・訳、光文社古典新訳文庫)からのものです。

 

1.社会契約の考え方

ルソーは、社会契約というものを、歴史的な経緯ではなく、理想的な社会を考える上での考え方だと捉えているように感じました。
どういうことかといいますと、ホッブズの場合、征服された民族が命と引き換えに服従を約束したとしても、それは立派な社会契約だと考えます。自然状態には現代の法は適用されないのだから、力による脅迫のもとに結ばれた契約も有効だと考えるのです。こうして、歴史的経緯を経て作られたものこそが社会契約と考えられました。
一方、ルソーは、このような力による服従は社会契約とは呼べないと主張します。

力というものは身体的な強さだ。この力の結果から、いったいどのような道徳性が生まれるのか、どうも理解しかねるのである。(第1篇第3章)森の片隅で強盗に襲われたとしよう。するとわたしは強いられて、財布を渡すだろう。しかしわたしは財布をうまく隠せるときにも、良心的に財布を渡すべきだということになるだろうか。(第1篇第3章)
だから力は権利を作り出さないこと、わたしたちには、正当な権力以外のものには服従する義務はないことを認めよう。(第1篇第3章)


つまり、実力による支配は、道徳的な権利を生むものではないというのです。
ホッブズとルソーの考えの違いは、他者を力づくで服従させておいて、支配の権利を主張することについてどう考えるかというところだろうと思います。ホッブズは、自然状態には秩序なんてないんだし、服従させられた人だって、自分の命と引き換えに服従することを受け入れたんでしょ?という考えでした。これに対し、ルソーは、歴史的にそういうことはあったにしても、現代社会の構造を考えるにあたって、そんな不合理なスタート地点から考えるのはおかしいんじゃない?という考えってことですね。
たしかに、歴史的経緯という観点からすれば、ホッブズの考えも正しいとは思いますが、これからの理想の社会を考えるにあたって、過度に歴史的事実にとらわれる必要はないと考えれば、ルソーの主張も非常に説得力があります。


このように考えるルソーにとって、社会契約とは社会の基礎となるものであり、社会構成員の合意から生まれたものでなければならないのです。

ところで社会秩序とは神聖なる権利であり、これが他のすべての権利の土台となるのである。しかしこの権利は自然から生まれたものではない。合意に基づいて生まれたものなのだ。(第1篇第1章)

 

2.社会契約の内容

では、社会契約は具体的にどのようなものとならなければならないのでしょうか。
ルソーはまず、自然状態で人々が生きていけない状態が発生したときに、人々が集団を作ると述べます。この辺はホッブズやロックらと同じですね。

ここで、さまざまな障害のために、人々がもはや自然状態にあっては自己を保存できなくなる時点が訪れたと想定してみよう。……人間が生存するためには、集まることによって、[自然状態にとどまろうとする]抵抗を打破できる力をまとめあげ、ただ一つの原動力によってこの力を働かせ、一致した方向に動かすほかに方法はないのである。(第1篇第6章)


他方、そのような集団を作るときに、ルソーは、ただ単に集団をつくればいいとは考えません。どのような集団が人々にとって望ましいか、ということを考えるべきだとします。このあたりは、やはりルソーが歴史的経緯ではなく、理想の社会を見据えて試行していたのではないかと考えられる場所です。

「どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式をみいだすことができるだろうか。この結合において、各人は……それ以前とおなじように自由でありつづけることができなければならない。」これが根本的な問題であり、これを解決するのが社会契約である。(第1篇第6章)


そして、上記の問いに対するルソーの答えは、共同体という集合体に自らの権利を譲渡するということだと言います。権利譲渡の相手は支配者という個別の人間ではなく、共同体という人間の集団全体です。ルソーは、この共同体全体が、全体として一つの人格をもつ法人のようなものと考え、その共同体全体としての人格が持つ意志を「一般意志」と呼びました。

社会のすべての構成員は、みずからと、みずからのすべての権利を、共同体の全体に譲渡するのである。(第1篇第6章)


この結合の行為は、それぞれの契約者に特殊な人格の代わりに、社会的で集団的な一つの団体をただちに作り出す。(第1篇第6章)


「われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導のもとに委ねる。……」(第1篇第6章)

 

3.一般意志

この一般意志というものがルソーの思想の一番重要なところなんだろうと思います。
一般意志とは、先ほど2.でも述べたように、共同体という人格が持つ意志です。これをルソーは、集団の個々人の意志の総和である全体意志と区別します。

一般意志は、全体意志とは異なるものであることが多い。一般意志は共同の利益だけを目的とするが、全体意志は私的な利益をめざすものにすぎず、たんに全員の個別意志が一致したにすぎない。(第2篇第3章)


つまり、集団を構成するそれぞれの個々人の意志を集めたものが全体意志ということです。これは、必ずしも公益を図るものではありません。他方、一般意志とは、個々人の意志を集めたものではなく、共同体という人格の意志ですから、共同体の利益、つまり公益の増進をはかるものであるはずだ、というのがルソーの主張でしょう。
そして、ルソーは、国家が、この一般意志によってのみ指導されるものだと述べます。それはつまり、国家を構成する人民こそが主権者となるということを意味します。

国家は公益を目的として設立されたものであり、この国家のさまざまな力を指導できるのは、一般意志だけだということである。(第2篇第1章)


主権とは一般意志の行使にほかならないのだから、決して譲り渡すことのできないものであること、そして主権者とは、集合的な存在にほかならないから、この集合的な存在によってしか代表されえないものであることを明確にしておきたい。(第2篇第1章)


ただし、一般意志は人々が議論を尽くしたときにしか現れないともルソーは指摘します。ルソーにとって、構成員一人ひとりが自分の真の意見を述べることが重要であり、根回しや党派対立は、一般意志が生まれるのを妨げるものだとされます。

人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。しかし人々が徒党を組み、この部分的な結社が大きな結社を犠牲にするときには、こうした結社のそれぞれの意志は、結社の成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意志となる。……だから一般意志が十分に表明されるためには、国家の内部に部分的な結社が存在せず、それぞれの市民が自分自身の意見だけを表明することが重要である。(第2篇第3章)

 

4.立法権と執行権

ところで、ルソーは国家の働きを、立法権と執行権に分けて考えます。執行権は政治体の力であり、立法権は政治体の意志です。そして、この執行権と立法権が協働することが必要だと述べられます。

力と意志で政治体は動かされる。政治体の力は、執行権と呼ばれ、意志は立法権と呼ばれる。この二つが協働しなければ何ごともできないし、何ごともしてはならないのである。(第3篇第1章)


この執行権と立法権の内、立法権については、人民自らが行使するものであるとされます(理由や詳細は後述)。

立法権は人民に属するものであり、人民以外の誰にも属しえない。(第3篇第1章)


他方、執行権については、人民の代理機関が行使することも可能というのがルソーの主張です。その上で、執行権は主権者に従う機関です(ルソーは「召使い」とまで言い切ります!)。つまり、主権者=人民が立法権を行使し、執行権がその下部機関という構図となります。

法律を実行に移すための力にすぎない執行権においては人民は代表されうるし、代表されねばならない。(第3篇第15章)


公共の力には適切な代行機関が必要である。……これが国家のうちで政府が必要となる理由である。……政府は主権者ではなく、主権者の召使いにすぎない。……だから主権者はこの権力を思いのままに制限し、変更し、とりもどすことができるのである。(第3篇第1章)

 

5.立法権

では、なぜ立法権は人民自らによって行使されなければならないのでしょうか。
それは、法こそが一般意志を表すものだからです。一般意志は人民全体の意志ですから、つまり、法を制定する立法は、一般意志を体現する人民によって担われなければならないということなのです。

立法権を所有するのは人民であり、この権利は他者に譲渡することのできないものであり、たとえ人民がこの権利を捨てることを望むとしても、捨てることはできないのである。というのは、基本的な契約[社会契約]によると、個人を拘束することができるのは一般意志だけであり、ある個別意志が一般意志と一致していることを保証することができるのは、人民の自由な投票による決定だけだからである。(第2篇第7章)

 

法律は一般意志を宣言したものだから、立法権において人民が代表されえないのは明らかである。(第3篇第15章)


ただし、立法権が人民にあるといっても、法律を起案するのが人民である必要はありません。ルソーはむしろ、人民が自ら法律を起案すべきではないとも考えていたようです。

法を作成する者は、立法権を所有するものではなく、またこの権利を所有してはならない。(第2篇第7章)

 

6.代表

ここまでなら、まだルソーの考えは現代と通ずるところもあると思うのですが、ルソーはさらにラディカルな主張を唱えます。なんと、主権(立法権)は代表されてはいけないと述べるのです。
現代の西側諸国では、立法は選挙によって選ばれた人民の代表が集まる議会において行われます。しかし、ルソーは、代表ではだめなのだと述べ、最終決定は人民集会で行われなければならないと述べます。

主権は譲渡されえない。同じ理由から、主権は代表されえない。……意志というものは代表されるものではない。一般意志は一般意志であるか、一般意志でないかのどちらかで、その中間というものはないのである。だから人民の代議士は人民の代表ではないし、人民の代表になることはできない。……代議士が最終的な決定を下すことはできないのだ。(第3篇第15章)


なかなかラディカルですね。そうなんです。ルソーは、人民全員が集まる人民集会で法が制定されなければならないと述べるのです。これは、小さい村や町ならともかく、現代の大規模な国家ではなかなか難しいんじゃないでしょうか。ルソー自身もそういう批判があることを予期して次のように述べます。

主権者は人民が集会を開いているときしか行動できない。人民の集会! とんでもない妄想だというかもしれない。今日ではそれは妄想であるが、二千年前にはそれは妄想などではなかったのである。(第3篇第12章)


そして、かつてローマには市内に40万人、帝国全体では400万人以上の市民がいたにも関わらず、ほとんど毎週、人民の集会を開いていたことを紹介するのです(とはいっても、それってみんな本当に出席してたんですかねえ、などと私は思ってしまいますが)。

 

7.人民集会

それでは、この人民集会とは具体的にどのようなものなのでしょうか。
我々の現代的な感覚でいうと、集会というものは、参加者の利害対立を調整する場と捉えられることも少なくありません。しかし、ルソーは人民集会を利害対立の場とは捉えていませんでした。
人民は、利害ではなく、それぞれの提案が一般意志と合致しているか否かを判断すべきだと考えられたのです。そして過半数(あるいはそれ以上の一定票)の賛成を得たものが一般意志であると判定されるのです。

人民集会で一つの法律が提案されたときに、人民に求められているのは、厳密に言えばそれを承認するか、拒絶するかということではない。その法律が人民の意志である一般意志に合致しているかどうかが問われているのである。(第4篇第2章)


どこまでも理想主義的ですね。理想論としては分かるんですが。
さらにルソーは続けます。人民集会において法律を認可するだけでは不十分なのだと。では、何が必要かというと、必要なときに臨時に集会を開くことができること、さらに定期的に集会が必ず開かれること、この2点が約束されていることが重要だと述べます。

人民が集会において、一連の法を認可し、国家の政体を定めたとしても、それだけでは十分ではない。人民が集会において、恒久的な政府を設置し、行政官の選挙方法を最終的に決定したとしても、それだけでは十分ではない。予想外の出来事が起きたときには臨時集会を開催すべきであり、さらにいかなることがあっても延期したり、廃止することのできない定例の集会を定期的に開催する必要がある。(第3篇第13章)


そして、さらに重要なことに、定期集会では、毎回、現在の政府の形態や、政府を構成する人々を信任するか否かということが審議されなければならないということです。
こうすることで、代理人である政府が主権を簒奪することを防ぐ、というのがルソーの考えです。

人民の定期集会……では、開会にあたって必ずつぎの二つの議題を提案しなければならない。…

第一議案 主権者は政府の現在の形態を保持したいと思うか。

第二議案 人民は、いま行政を委託されている人々に、今後も委託したいと思うか。

(第3篇第18章)


日本国憲法においても、国会の常会が必ず年1回召集されること、必要な時には臨時会が開かれること、ということが規定されていますが、こういったところはルソーのアイディアなのかもしれませんね。

 

8.政体

ここで、やや話題それて、ルソーの政体論についてもご紹介します。(アリストテレス以来、政治思想書にはおなじみの政体論。みな一言述べないと気が済まないのでしょうか。。。)
ルソーは3つの政体があると主張します。それは、民主政、貴族政、君主政の3つです。政府が人民の大多数で構成されるのが民主政、人民の少数で構成されるのが貴族政、1人で構成されるのが君主制です。

第一に主権者は、政府を人民の全体または人民の最大多数に委託することができる。……政府のこの形態は民主政と呼ばれる。第二に、主権者は、政府を少数の人々に委託することができる。…政府のこの形態は貴族政と呼ばれる。最後に主権者は、政府の任務の全体を一人の行政官に集中させることができる。……この第三の形態は……君主政または王政と呼ばれる。(第3篇第3章)


と、ここまではいいのですが、なんと、ルソーはどの政体も一長一短があると述べるのです。

どの政体も、ある場合には最善であり、他の場合には最悪でありうる……。(第3篇第3章)


これ、私、すごく混乱しました。だって、ルソーって、主権は人民にあるとか言ってたから、民主政原理主義者なんじゃないか、と思ってたましたから。どの政体も一長一短があるっていうことは、君主政もありってことなのかと。
ただ、よくよく読み返してみると、ルソーは政府の人数で政体を分けているんですね。政府って、先ほど述べたように、執行権の部分しか担当しません。
つまり、立法権は人民全体の人民集会で行使される。これはルソーにとって曲げられません。他方で、その立法権の指導を受けて行使される執行権は、人民全体だろうが、貴族だろうが、国王だろうが、いろんな体制によって行使可能だということです。ただし、ちゃんと立法権の言うことを聞けよ、という留保つきではありますが。

 

9.まとめ

以上、ルソーの社会契約論をざっと私なりにご紹介させていただきました。
私の感想としては、一般意志と人民の定期集会というところが特徴的だと感じました。個々の構成員の意志とは独立して、共同体という集団全体に一般意志という意思をもった人格があるという考えは、非常に興味深く、これ以後の思想を深化させていく概念の一つだったのではないかと思います。ただし、私個人としては、一般意志というものが本当に存在するのかどうかは疑わしいと思っています。
また、定期集会というのは(人民全体の集会ではないにしても)、定期的に政府の監視を行う体制を作るということで、分かりやすい考えだと思いますし、現代においても受け継がれている重要な発想ではないかと思います。
 それではまた!

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『法の精神』(1748)

 

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