On the Shoulders of Giants

政治思想史の古典紹介

J.S.ミル『代議制統治論』:議会の役割は監視・統制

John Stuart Mill, Considerations on Representative Government, 1861

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こんにちは。今日は、J.S.ミルの『代議制統治論』の概要をご紹介します。
ミルは、国民の徳や知性の向上を図るという観点から、国民が政治に関わる代議制民主体制こそが最善の政治体制と考えました。この代議制において、国民の代表による議会が、行政に直接関与するのではなく、行政を監督する立場に徹するべきであるとの主張は、現代においてもたびたび参照される重要な指摘です。
この記事では、2019年に刊行されたばかりの新訳、関口正司訳(岩波書店)に準拠してご紹介します。

 

1.J.S.ミルについて

J.S.ミルはイギリスの政治思想家です。一般的には、個人の自由の重要性を訴えた『自由論』という本の方が有名かと思います。ですが、明治時代にはこの『代議制統治論』もかなり人気があったようです。この記事では、『代議制統治論』について、議会が果たすべき役割を中心に概要をお伝えしたいと思います。

 

2.秩序と進歩

(「第2章 よい統治形態の基準」(前半)より)

ミルは、よい統治とは何か?ということについて思索を進めます。功利主義者ベンサムの影響を強く受けたミルらしく、社会の利益を高めていく統治がよいものという前提で話が進められていきます。では、社会の利益とは何なのでしょうか。このことを考えるために、まず、ミルは社会の利益をグループ分けすることから考えていきます。

統治の善し悪しの判別基準として、社会の利益総体という非常に複雑なものを設定せざるをえないとなれば、それらの利益を何らかの形で分類してみよう(p.18※)
(※関口正司訳(岩波書店)の該当ページ。以下同じ。)

つまり、社会の利益がどのような要素で成り立っており、そのすべてを高めることのできる統治形態は何か、というところから考えていこう、というのがミルの主張です。
では、社会の利益はどのような要素に分けられるのでしょうか。ここでミルは、先行する思想家らが社会利益の構成要素として、秩序と進歩、あるいは持続と進歩という2つの要素に分けていることに注目します。

〔社会の善の構成要素を分ける〕分類は、秩序と進歩、…持続と進歩というように、社会の必須要件を二つの項目に分けることに終始している。(p.18)(〔〕は評者注。以下同じ。)

つまり、これまで、社会利益を構成するものとしては、「秩序・持続」と「進歩」という2要素が考えられてきたというのです。
その上で、ミルはこのような考えに対して批判を加えます。ミルにとって、秩序あるいは持続というのは、社会の状態が悪くならないように現状維持をしようとしている状態と考えられます。そのような現状維持の力をさらに強めれば、進歩になるというのです。


例えば(これは私の考えた例ですが)、下り方向のエスカレーターを登ろうとしたとき、エスカレーターの速さと登る速さが同じであれば、前にも後ろにも進むことはありませんね。しかし、エスカレーターよりも早く足を動かせば、少しずつ上っていくことができます。前にも後ろにも進まない状態が「秩序」あるいは「持続」、上っている状態が「進歩」と捉えると分かりやすいです。
この下りエスカレーターのように、ミルは社会は放っておけばどんどん悪くなっていくものと考えました。

〔古代より〕人間とその仕事の自然的傾向は堕落だった。…人間生活の中には劣悪な方向に向かうたえざる流れがあることを忘れてはならない。(p.25)

そして、ミルによれば、このような下りの動きに対抗して現状維持を図っている状態が「秩序」や「持続」であり、さらに努力の力を強めて現状をよりよくしていくことが「進歩」であるというのです。つまり、「進歩」は「秩序」や「持続」をさらに強めたものであって、これらの違いは強弱の違いにすぎず、実質的には同じものだというのがミルの主張です。

進歩とは、持続プラスそれ以上のものである。…ある一つの種類の進歩は、同じ種類の持続を含んでいる。(pp.23-24)

そうすると、社会の利益を、秩序と進歩の2つに分けることは意味がなくなってしまいます。なぜなら、進歩を達成すれば同時に秩序も達成できるからです。ミルは次のように述べます。

よい統治の定義から秩序という言葉を除去した上で、最善の統治は進歩に最も役立つ統治であると言った方が、哲学的にはもっと正確になるだろう。なぜなら、進歩は秩序を含んでいるが、秩序は進歩を含んでいないからである。秩序において低い程度にとどまっているものが、進歩においては高度化しているのである。(p.24)

 

3.よい統治形態とは?

(「第2章 よい統治形態の基準」(後半)より)

社会利益を秩序と進歩と分ける分類ではいけないということですが、では、どのような分類だったらよいのでしょうか。


これについて、ミルは、「人々の資質」と「機構それ自体の質」という2つを、よい統治形態を考える際の基準として提案します。ミルは司法制度を例に挙げて説明します。司法に参加する人々が規則を守らなければ、司法は正しく運営されません。しかし、有能で道徳的な人が揃っていたとしても、裁判官の選任方法や情報公開などの整備が不十分では、やはり適正に運用されることは難しくなります。
このように社会を構成する人々の資質と、社会の機構それ自体の双方がよりよくなることが、よい統治にとって重要なのだとミルは述べます。

よい統治の第一の要素は、社会を構成する人々の徳と知性であるから、統治形態が持ちうる長所の中で最も重要なのは、国民自身の徳と知性を促進するという点である。…統治体制の長所のもう一つの構成要素としては、機構それ自体の質…つまり、機構が一定時点に現存する諸々のすぐれた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている度合である。(pp.28-29)

 

4.代議制統治の優位性

(「第3章 理想の上で最善の統治形態は代議制統治である」より)

以上において、よい統治というのは、国民の徳や知性を向上させることと、効率的に運営されていること、という2つの点が重要であると述べられてきました。
結論を先取りすると、ミルは、この2つの目標をいずれも高いレベルで達成できる制度こそが「民主政」であると述べます。


現代に住む我々にとって、民主主義こそが最善の統治形態という言説は当たり前のように感じられますが、19世紀当時は必ずしも自明のことではありませんでした。専制政治であっても、君主が優れていればよい統治が行なわれるだろうと考える人も多かったようです。プラトンの哲人統治もこの類の考えだと思います。

すぐれた専制君主を確保できるのであれば専制君主政が最善の統治形態だろう、と長らく…決まり文句のように言われてきた。これは、よい統治とは何かについての根深く非常に有害な誤解だと私は考える。(p.42)

ミルはこのように述べ、たとえ優れた君主であっても、専制君主制が最善ではないと言い切ります。
なぜなら、専制君主政では、国民の徳や知性の改善は難しいからです。

〔すぐれた専制君主は〕超人的な精神能力を持った一人の人物であり、この人物が、受動的精神を持つ国民の一切の事柄を処理することになる。…万事は、国民に代わって国民以外の意志で決定され、それに従わなければ、法律上、犯罪となる。(p.43)

非常に優れた君主で、国内の隅々を正確に見通し、常に的確な判断を下せる超人的な君主が仮にいたとして(そんな超人的な人物が存在するかどうかも疑問ですが)、そのような君主が国を統治したとしても、それはミルにとって最善の統治ではありません。なぜなら、そのような統治には、国民の意志が反映されないからです。


国民の意志が反映されないとどうなるのでしょうか。ミルは続けます。

国民全般は、重要な実践的問題については情報も関心も持たないままである。…その道徳的能力も発育不全となる。…人は自国のために何もしないように仕向けられれば、自国を気にかけなくなる。…国民全般の知性と感情は物質的利益に向けられ、…国民凋落の時代が到来したと言うのに等しい。(pp.44-46)

国民の参加が排除された統治では、国民は国政に関心を持たなくなるばかりでなく、愛国心すら失ってしまうというのです。3.で見たように、ミルは、よい統治の基準として、徳と知性の向上を条件に挙げていました。そんなミルにとって、たとえどんな天才的な君主が善政を敷いたとしても、それは国民の改善につながらないから善政ではないというのです。

〔専制君主政の擁護者は〕よい統治の理想から、国民そのものの改善という主要素を脱落させているのである。…理想の上での最善の統治形態…それは、主権あるいは最終的な最高統制権力が社会全体に付与され、また、市民が…地方や国の公的な役割を自ら直接に果たすことで統治体制に実際に参加するよう少なくとも時折は求められる、そうした統治形態である。(p.48-50)

よい統治者が政治を行なえばよいというものではない、国民の参加こそが重要なのだ、という考えはプラトンとアリストテレスの考え方の違いを想起させるものですね。やはりギリシャ古典哲学おそるべし。


以上で、民主政が最善ということが論証されました。と、これで結論かと思うと、ちょっと待ってください。この本のタイトル、『代議制統治論』でしたね。なんでただの民主制ではなくて「代議制」(議会制)でなくてはならないのか。この点について、ミルは第3章の最後で申し訳程度に次の1文を述べるだけにとどまっています。

とはいえ、一つの小さな町よりも大きな社会では、公共の業務の何かごく小さな部分以外に全員が直接に参加することは不可能だから、完全な統治体制の理想型は、代議制でなければならない(p.64)

う~ん、確かに、国民が全員参加するのは不可能なので代議制(議会制)が望ましい、っていうのはこの一文でも十分に分かるんです。分かるんですが、これまで非常に精緻に民主制の利点を述べてきたミルなので、この部分ももう少し詳しく述べられてもよかったのでは、と思うのは私だけでしょうか?(何か論理の飛躍があるように思えるわけでもないんですが、少し寂しいなと。)

 

5.代議制統治のあり方

(「第5章 代表機関の本来の役割について」より)

さて、これまでの議論では、国民の知性と徳性を高める民主政こそが最上であり、といっても複雑な近代社会では全員がフル参加はできないので議会制を導入して国民みんなが少しづつ政治に参加しましょう、ということが述べられてきました。
それでは、国民から選ばれた代表者による議会はどのような役割を果たすべきなのでしょうか。

国家の実質的至上権を国民の代表に与えることは代議制統治に不可欠であるけれども、しかし、代表機関が自ら直接的に果たす実際の役割は何か、統治機構のいったいどの部分か、という問題にはまだ答えられていない。(p.82)

ミル自身が投げかけたこの疑問について、ミルは、国家の統治を行政と立法の分野に分類して答えていきます。

ん?行政と立法!?議会は立法府ではないか!と思ったあなた、もう少し辛抱してお付き合いください。

 

(1)行政における議会の役割

まずは行政分野における議会の役割についてみていきましょう。
ミルは軍隊の司令官が自ら戦闘に参加してしまうと、軍隊を適切に指揮できない、という例を引きながら、議会も同様に、自ら業務遂行をするのではなく、議会は統制に徹するべきとの考えを持っていました。ミルは次のように強調します。

万事に対する統制は多くの場合、自分で直接に業務を担当しなければしないほど、完全となる。…議会の本分は行なうことではなく、他者に適切に行なわせる方策を講じることである。(p.82)

そして、この理由として、ミルは2つの理由を挙げます。1つ目は、多人数からなる集団は執行業務に適していないということ、2つ目は、行政の執行には熟練が必要であるということです。
まず1つ目のミルの言葉を見てみます。

どんな人間集団でも、組織され指揮を受けなければ、本来の意味での行動に適していない。…個人よりも集団が適切に行なえるのは審議である。…ただし、一般的にあくまでも助言者としてである。執行業務は、たいていの場合、一人が責任を負う方がうまくいく。…〔集団の場合は〕単独で自ら負うべき個人としての責任の意識を著しく弱めてしまうのである。(p.84)

ミルは上記のように、集団で行うのに適した業務と個人で行うのに適した業務には違いがあると考えました。その上で、議会は集団なので、得意とするのは審議であり、しかも助言であるとしました。他方で、業務執行は、個人が責任をもって遂行した方がよいと考えたのです。
また、議会が統制に徹するべき2つ目の理由について、ミルは以下のように述べます。

行政のどの部門も熟練を要する仕事であり、それぞれ固有の原則や伝統的規則を持っている。(p85)

ミルはこのように、行政を行うには、熟練と知識が必要であり、議会が必要以上に干渉すべきではないと述べています。
なお、ミルは議員にそれを理解する能力がないと貶めているのではありません。こういった知識や経験は長年にわたって行政に携わらないと得ることができないと述べているのです。

公務の処理は難解な秘儀で、入門を許された人にしか理解できない、と言いたいわけではない。まっとうな理解力を持ち対処すべき事情や条件を正しく把握している人であれば誰でも、公務の原則は十分に理解可能である。しかし、そのためには事情や条件についての知識が不可欠であるし、その知識は直観で得られるわけでもない。…門外漢はその存在理由を知らないし、規則があると思ったことすらない。(p.85)

(最低限の理解力は別として)能力のあるなしではなく、実際に行政に携わらなければ、行政執行の知識は得ることが難しく、多数の議員からなる議会にそれを求めるのは難しいでしょう。


以上、2つの理由から、議会は行政執行を直接行うべきではないといのがミルの考えです。それでは、議会は一体どのような役割を果たすべきなのでしょうか。

行政の仕事に関する代表者議会の本来的職責は、行政の仕事を自分たち自身の投票で決定することではなく、それについて決定すべき人が適切な人物であるよう注意を払うことである。(p.87)

議会は自ら行政を行うのではなく、行政が適切に行なわれるように、行政の責任者をコントロールするのが役割だとミルは述べます。では、そのためにどうするのか。議会は首相を決定すればよい、というのがミルの主張です。

議会は、誰が首相になるか…を実質的に決めれば十分である。(p.88)

 

(2)立法における議会の役割

では立法における議会の役割としてミルはどのように考えていたのでしょうか。

多人数の議会は、行政ばかりでなく立法に関しても直接的な仕事にはほとんど適していない。(p.89)

えー!?ちょっとまってください!議会=立法府じゃなかったんですか?現代日本人には衝撃的な一文です。
まあ落ち着きましょう。ミルは「直接的な仕事には」と述べています。議会が立法に全く関与してはならないと言っているのではなく、「直接的には」関与すべきでないと述べているのです。要は、法律の条文を一から作り上げるのは向いていないということでしょう。


この理由としてミルは2つを上げます。まず1つ目です。

立法の仕事ほど、経験と訓練を積んでいるばかりでなく長年の労苦に満ちた研鑽で鍛えられた人物を必要とする知的仕事は他にない。(pp.89-90)

立法の仕事も行政と同じように経験と訓練が必要ということですね。
そしてもう1つの理由が下記です。

法律の条項はどれも、他のすべての条項への影響をきわめて正確に長期的な視点から見抜いた上で作る必要がある。また、作成された法律は、既存の諸々の法律と調和して、一貫性のある全体とならなければならない。雑多な寄せ集めの議会で法律について逐条的に投票していたのでは、この条件はまったく満たせない。(p.90)

1つ1つの条項が他の条項に及ぼす影響、新しい法律が既存の他の法律に及ぼす影響、これらを慎重に見極めながら作業を行わなければ、立法は行えないとしたのです。そして、そのような慎重な作業は、様々なバックグラウンドを持つ議員の集団ではできないというのがミルの主張です。

 

では、議会は立法に全く関与しなくていいのかというと、そういう訳ではありません。ミルは次のように述べます。

代表者議会がしっかりやれそうな仕事は、作業そのものをすることではなく作業をさせることであり、誰にあるいはどんな種類の人に作業を委ねるかを決め、実施されたらそれを国全体として承認するかしないかを決めることなのである。(p.92)

つまり、議会は法律の条文を起草するような作業をするのではなく、誰かに起草させて、最終的にそれを法律とするかしないかを決めればいいということです。これを実現させるため、ミルは「立法委員会」というものを提案します。
立法委員会といっても、議会の中の委員会ではなく、独立した組織として設置されるもののようです。ミルの構想では、立法委員会は国王から任命される小人数の人物からなり、法律案を起草します。そして、議会はその法律案を審議するわけですが、その審議には以下のような制限が付されます。

いったん法案ができあがったら、議会に修正権限はなく、その権限は、成立させるか拒否するか、あるいは、部分的に不承認の場合は再検討するよう委員会に差し戻すことだけにとどめるべきである。(p.93)

議会は、立法委員会で起草された法律を可決させるか否決させるかの権限しか持ちません。議会が自ら修正することはできず、不服がある場合は委員会に差し戻して委員会で修正してもらわなければなりません。

そして、ミルは、この立法委員会による法案起草と議会による審議によって理想的な代議制統治が完成すると述べます。

立法は、熟練が必要で専門研究と経験が欠かせない仕事という、本来の地位を回復する。その一方で、自分たちの選出した代表者が同意した法律によってのみ統治されるという、国民の最も重要な自由は、すべて元のまま変わらない。(pp.94-95)

 

(3)議会と政府監視

以上を総括して、ミルは議会の役割を以下のように述べます。

代表者議会の本来の役割は、…政府を監視し統制することである。政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて十分な説明と正当化する理由の提示を強制することである。(p.95)

「政府を監視し統制する」ということについては上記でも触れましたので説明は不要かと思います。

他方、「公開性の光」とは、(第5章では)急に出てきた言葉ですが、稿者のいだいた印象としては次のようなものです。つまり、政府の業務は専門性が高いために一般国民から見えない部分もあり、独善的になる可能性もありますが、それについて議会が監視をし、公開の場で議論することで、政府の行動を明らかにし、説明責任を果たさせる、ということではないでしょうか。それによって、説明できないような不正を防ぐという発想ではないかと思います。

 

また、ミルは、議会が監督のみならず、次のような役割を担っていることも指摘します。

議会は国民の苦情処理委員会であるとともに、種々の意見が集う会議でもある。(p.95)

国民1人1人の力では国政に届けられないような意見であっても、国民の代表である議員が議会で代弁してくれることによって、たとえそれが実現しなくとも議論されたという満足感が得られます。また、国民の多数がいだいている意見は、議会の中でも多数意見となって現れるはずであり、それは政府に対する牽制ともなります。
ミルは次のように述べます。

議会は…適切な構成になっていれば、公的な問題に発言する資格を持っている国民の様々な知性のレベルすべてを正しく反映した見本となる…。議会の役割は、要求を知らせること、国民の要望の表明機関となることである。(p.97)

 

6.まとめ

以上見てきたように、ミルは、議会が直接、執行を行うのではなく、監督に徹するべきだと考えました。ミルが本書を著した19世紀以上に、現代の政治では立法・行政ともに複雑化・専門化しており、現代においてもなお重要な視点が含まれるのではないでしょうか。


なお、ここからは稿者の個人的な感想を2つだけ述べさせていただきたいと思います。
1つ目は、ミルが強調したのが、立法と行政の分離ではなく、監督と執行の分離ということについてです。我々は小学生の頃から、モンテスキューの三権分立、議会=立法府ということを聞かされてきましたが、ミルのこの議論を見る限り、立法と行政の分離は必ずしも重要ではないように思えてきました。

ミルは、議会が行政・立法のいずれにおいても監督に徹するべきと述べています。逆に言えば、議会は監督に徹する限りにおいて、行政・立法のいずれにも影響を及ぼすということです。なお、日本の実態から言えば、ミルの「立法委員会」のような役割は行政府の中央省庁が主に担っており、立法と行政いう切り口よりは、監督と執行という切り口の方が、ミルを理解する上でも、現代日本社会を理解する上でもしっくりくるのではないかなと思いました。

 

2つ目は、ミルが議会を多人数からなる集団であるという特徴から考察したことについてです。つまり、議会が監督に徹するべきというのは、一人ひとりの議員の能力には関係なく、議会が多人数の集団であるからなのだと思います。多人数の集団であるからこそ、様々な意見が噴出し、議論が拡散し、整合的な法律を起草するのが難しいということではないでしょうか。

むしろ、議論が噴出しないようでは、多様な国民の意見を吸い上げるという機能を果たせておらず、議論噴出というのは議会のあるべき姿でもあると思います。

 

最後に、ミルの予言を引用して本記事を終えたいと思います。

現実には、行政の細目に対する代表機関の干渉がますます増えていく傾向が強い。…これは代議制統治の国々が今後直面することになる現実的危険の一つである。(p.89)

 

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