On the Shoulders of Giants

古典読書で一般教養を学び直し

アリストテレス『政治学』

アリストテレス『政治学』を読みました。以前ご紹介したプラトン『国家』の後に読んだことで、私なりに面白いと感じたことがいろいろとありましたのでご紹介します。


プラトンとアリストテレスを読み比べて一番面白いと感じたのは、国家を誰が運営すべきかという考え方の違いです。プラトンはごく限られた優秀な哲学者のみが、大衆の意見に惑わされることなく、唯一の真理に基づいて国政に携わるべきだと考えました。


これに対し、アリストテレスは、幅広い大衆が国政に参与することの重要性を説きました。私なりの解釈にはなりますが、大衆の市民参画が必要となる理由として、市民の政治参画による国家の安定、国家は市民のためにあるという国家設立のそもそもの目的、感情に左右されない客観的な統治ということが挙げられるのではないかと思います。


以下にて一つずつご紹介したいと思います。

 


1.プラトン『国家』との比較

1-1 プラトンの思想ー哲学者(優秀者)による支配

プラトン『国家』においては、真理、すなわち善のイデアを認識しうる真の哲学者こそが、国家の守護者として政治を行うべきであることが述べられました。それは、有名な以下のフレーズで述べられています。

哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり・・・あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、・・・国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。(『国家』第5巻)  


プラトンは、哲学者を生まれながらの素質と長い間の鍛錬によって真理を認識できるに至った人と考えます。そして、真理とは、多数決で決められるようなものではなく、人々の考えとは無関係に客観的に存在するものだと捉えました。その上で、多数の人が述べる意見こそが正しいものだと説くソフィストたちを以下のように非難します。

 彼(=ソフィスト)はこれを『知恵』と呼び 、ひとつの技術のかたちにまとめ上げたうえで、それを教えることへと向かうのだ 。その動物(=大衆)が考えたり欲したりする、そういったさまざまのもののうち、何が〈美〉であり〈醜〉であるか 、何が〈善〉であり〈悪〉であるか、何が〈正〉であり〈不正〉であるかについて、真実には何ひとつ知りもせずにね。こうした呼び方のすべてを、彼はその巨大な動物の考えに合わせて用いるのだ。つまり、その動物が喜ぶものを『善いもの』と呼び、その動物が嫌うものを『悪いもの』と呼んで、ほかにはそれらについて何ひとつ根拠をもっていない。(『国家』第6巻)  

 
このように、プラトンは大衆の考えには価値を認めておらず、ごく限られた優秀な哲学者が、大衆の意見を考慮することなく、真理に基づいて政治を行うことを理想と考えました。


1-2 アリストテレスの思想ー大衆の政治参画

これに対しアリストテレスは、大衆の判断力に信頼を寄せています。アリストテレスは、大衆の一人一人は決して優秀ではなかったとしても、多数が集まることで一人の優秀者をしのぐことができると述べます。

多数者は、その一人一人はりっぱな人とはいえないにしても、集まれば少数の優秀者にまさるかもしれない、一人一人別々ではそうでなくても、全体としてはその可能性はありうるわけである。それはちょうど大勢が各自費用を負担しあった食事のほうが、一人の出費でまかなわれた食事よりはよいことがあるようなものだ。多数の人間がいれば、その一人一人は徳と思慮をいくぶんかは分有しうるし、それにみんながいっしょになれば、その集団は、多くの手足や多くの感覚をそなえた一人の人間のごとくになるように、性格や思考の面でもこれと同様のことがいえるだろうからである(第3巻第11章)

 
さらに、アリストテレスは、大衆が政治に参画することに否定的な意見があることも認めつつ、それでもなお、国民議会(民会)や裁判を通じて大衆が政治に参画すべきだと述べます。

たしかにかれらが国の最高の役職に参与するのは危険なことである。かれらには不正なところもあり、無思慮なところもあるから、あるいは不正を犯し、あるいは過ちを犯すことを免れえぬことだろうから。さりとて他方また、かれらをそうした国家統治の要職にいささかもあずからせない、参与をまったく許さないというのも危険といわなければならないだろう。「国事担当の栄職からしめ出された者」、そして貧乏な暮しをしている者がその国のなかにたくさんいる場合にはいつも、その国にはかならず敵がみちあふれているにちがいないから。とすると、残されたもう一つの場合としては、かれらには審議と裁判の役目を割りあてればよいわけである。(中略)事実かれらはみなが集まって一つになれば、充分な識別力を持つことになるし、またよりよい階層の人々といっしょになれば、国のためにもなりうるわけである・・・(第3巻第11章)

 
なお、アリストテレスが述べる「大衆」には、当時いた奴隷はもちろんのこと、日々あくせく働く職人や農民は除かれるなど、現代の我々が考える「大衆」よりはかなり範囲が狭いことには注意が必要です。

 
2.国家の安定

2ー1 市民の政治参画

上記引用した部分において、アリストテレスは、仮に大衆に政治参画を許さず「国事担当の栄職からしめ出された者」が多くなると、国に「敵がみちあふれて」しまうと述べます。これはどういうことでしょうか。


アリストテレスは、政治参画が名誉なことなので、市民からその機会を奪ってはいけないと考えます。

ではしかるべき徳をそなえた何人かの人々が治者となり、あらゆることの最高の権限をもつべきか。しかしそうなるとどうしても、それ以外のすべての人たちは、国事担当の役職につく名誉にあずかれないので、「名誉を奪われた者」ということになるだろう。というのは、公職とは名誉ある役職であるとわれわれはいうのであり、もし同じ人々がいつまでも公職についているとすると、残りの人たちは「名誉を奪われた者」ということにならざるをえないのだから。(第3巻第10章) 

 
上記引用において「しかるべき徳をそなえた何人かの人々」とは、まさにプラトンのいう真の哲学者のことを指しているように私には思えます。そして、プラトンの哲人統治思想を実現してしまっては、政治参画という名誉を市民から奪うことになってしまうと指摘し、市民の広い層に政治参画を認めるべきだと主張しているのです。

 
2ー2 国家の安定

 それでは、市民から政治参画の機会が奪われればどうなるのでしょうか。アリストテレスは、政治から疎外された層が国家の中に多くなると、不満が蓄積し国家が分裂してしまうと考えているようです。 

すべての国家体制について一般にあてはまる同じ原則を立てなければならない。つまりそれは、国家体制の存続を希望するもののほうが、それを欲しないものよりも国内の強力な部分をなしていなければならない、ということである。(第4巻第12章)  

 

ちなみに、アリストテレスの倫理観では、中庸が最善であるとされます。国家においても同様に、中間層が力を持つことで、いずれか一方に傾くことなく、国家の分裂・崩壊を防ぐことができると述べています。 

さておよそどの国家にも、国家の三つの部分があり、それは非常に裕福な人々と非常に貧しい人々と、第三にそれらの中間の人々である。・・・(中略)・・・国家共同体でも中間的な人々によって支配されているものが最善であり、またよい政治が行われる国家というのは、そこにおいては中間的な部分が多数であって、できれば両極端のいずれかよりも強力であるか、それがだめなら、どちらか一方よりは強力であるというような国家だ、ということは明らかである。それはかれらがどちらか一方の側につくことによって、秤はそちらへ下がって形勢は決まり、両派があまりに極端に対立することになるのを妨げるからである。(第4巻第11章)  

 
ここでも、やはりアリストテレスは、市民の政治参画をできる限り幅広い層(ここでは特に中間層)に認めることで、国家の分裂を回避すべきだと考えていることが分かります。

 
3.国家統治の目的

 大衆の判断力を信頼していたアリストテレスは、以下ご紹介する部分では、大衆の政治参画が国家の存在意義にも合致すると考えていたと読み取ることができます。

 
3ー1 国家の目的

アリストテレスは、国家の起源を家族だと考えます。人間がもともと自らの生存を安全にするために作った家族が分化し、多数集まることでやがて国家になるとの考えです。つまり、人間が国家を作るのは、自然の摂理にかなった必然的なものですから、その意味で人間は「ポリス的動物」(第1巻第2章)であるのだと規定します。


そうすると、国家というのは個々人のために作られたものですから、支配者の利益だけでなく全体の利益(公共の利益)を考えなければなりません。 

(各人にとっての)よき生活ということこそ共同体全体にとっても個人個人にとっても最終目的であることに間違いはない。(中略)以上のことからして明らかに、公共の利益をあくまでも考える国制こそは、まさしく絶対的な正義の規準にかなった正しい国制であり、これに反して支配者自身の利益のみをおもんぱかる国制はすべて間違った国制で、正しい国制から逸脱して邪道にそれた国制である。(第3巻第6章)  

 
3ー2 よき生活=徳

 では、アリストテレスの言うよき生活とはどういうものでしょうか。
アリストテレスは善には、富などの外部的な善と、健康などの身体の善と、精神の善(=徳)の3つがあり、その中でも精神の善、すなわち徳が最も重要と述べます。そして、徳をともなった生活として望ましいのは、市民国家の一員として国政に参加する生活だと述べます。 

公の国家全体にとっても、おのおのの個人にとっても、行動的生活が最善の生活だということになるだろう。(第7巻第3章)   

 

つまり、よい国家とは、多くの市民に幸福な生活を与えることができる国家であり、そのためには、市民に広く政治参画の機会を与えることが必要となるのです。 

最善の国制とは、それによってどんな人でも、最善の活動と幸福な生活できるような秩序でなければならないということは明らかである。(第7巻第2章)   

 
4.法治主義と客観的な裁定

 また、アリストテレスは正しく制定された法律によって統治が行われるべきであるという、法治主義の考えも展開しました。 

正しく制定された法律こそが最高の権限をもつべきであって、治者は、一人であると多数であるとを問わず、法律が厳密に規定することがどうしても不可能なことがらについてのみ--個々一々のことがらをすべて通則でこまかく決めることは容易ではないため--権限をもつべきである(第3巻第11章)   

 
アリストテレスは、支配層が1人、少数、あるいは多数のいずれであろうとも、正しく制定された法律によって、感情に左右されない客観的な判断が下されることが重要だと述べています。 

感情という要素がまったく付け加わっていないもののほうが、生まれつきそれとの結びつきがあるものよりもまさっている。しかるにこの感情的な要素は法律にはないものであるが、人間の魂はみな必ずこれをもっているはずである。(第3巻第15章)   

 

それでは、法律が想定しない個別事案が発生した場合、どのように対処すべきなのでしょうか。アリストテレスは、そのような裁定の場面において、一人や少数者による判断は感情に左右されやすく、大衆が裁定の権限をもつべきだと主張します。 

他方なんにせよ法律がまったく裁定できないか、または適切に裁定できないようなことがあるとしたら、そのようなことについて裁定しなければならないのはただ一人の最善のひとだろうか、それとも市民全体だろうか。・・・(中略)・・・多量のもののほうが損なわれにくいーーそれは多量の水が少量の水より汚染されにくいのとちょうど同じで、大衆も少数者より悪に染まりにくい。また一人のひとが、怒りやその他なにかその種の激情にかられると判断が損なわれざるをえないが、かたや、すべての人が同時に怒りにかられ、あやまちを犯すなどというのは、めったにありえないのである。(第3巻第15章) 

 
このように、客観的に政治を行うべきとする法治主義の考え方からも、大衆の政治参加は有用だということが言えます。

 
5.余談:三権分立

なお、余談になりますが、1.で引用した部分で、アリストテレスは大衆には「審議と裁判の役目を割りあて」るべきだと述べています。実は、アリストテレスは、この時点で既に、現代の立法、行政、司法に似た国家の3つの機関を明確に区別して認識しています。 

すべての国家体制には三つの部分があるが、すぐれた立法家はそれらに関連して、それぞれの国家体制にとって利益になることを考えなければならない。・・・(中略)・・・これら三つのうち一つは、公共の問題について審議にあたるの(=議会)はどんなものかということであり、第二は国家統治の役職(=行政)に関するもので、つまりその役職がどんなものでなければならず、またどういうことを管轄すべきであるか、そしてそれにつく人の選出はどういうふうに行われるべきかであり、第三は裁判をするのがどんなものか、ということである。(第4巻第14章)   

 
審議と裁判はどちらも大衆参加としているので、三権を分立させると主張しているわけではありませんが、既にこの時代に国家作用を3つの要素に分けて検討していることは注目に値するものです。


6.まとめ

いろいろ述べてきましたが、冒頭でもお伝えしたように、アリストテレスはプラトンの哲人統治思想に対し、大衆の政治参画という観点から反論をつきつけました。ここでは紹介できませんでしたが、アリストテレスは、アテネのみならず、当時の幅広い国家の統治形態を例に挙げながら主張を展開しており、さまざまな事例を比較検討した上で現実的な議論を展開したものと考えられます。その意味で、理想から議論を展開したプラトンと明確なコントラストを描いており、この両者の存在が後世にまで大きな影響を与えた意味を感じることができました。

 
(なお、上記でご紹介した引用したのうち、プラトン『国家』は岩波文庫(藤沢令夫訳)、アリストテレス『政治学』は中公クラシックス(田中美知太郎ほか訳)によるものです。)