On the Shoulders of Giants

古典読書で一般教養を学び直し

ロック『市民政府論』

ロックの『市民政府論』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。相変わらず角田氏の訳はとても読みやすく、前半はすいすいと読めていたのですが、後半から同じようなことの繰り返しが増えてきて、なんだかんだ読むのに1月以上もかかってしまいました。

この本はご存知のとおり、社会契約論の本です。原文はTwo Treaties of Governmentとあるように二編からなる論文らしいのですが、光文社の訳は現代の社会契約論に関係してくる後半、第二編のみを訳出しているそうです。前回のホッブズの思想と比較しながらご紹介したいと思います。

1.自然状態のとらえ方

 ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する闘争状態」ととらえました。自分の身は自分で守らなければならないような状況では、人々はいつ誰に襲われるかもわからず疑心暗鬼となり、自分の身を守るために、他者に先制攻撃することも許されるとしています。しかし、そんな状況ではいつ命を落とすかも分からないので、人々は自然法というものを見出し、安寧を求めようとする、というのがホッブズの考えでした。
 これに対し、ロックは、自然状態においては、すでに自然法が人々を規律していると考えます。つまり、自然状態においても、人々はお互いの生命や財産を侵害してはならないとロックは考えたのです。

人はもともと完全に自由な状態にあり、自然法の範囲内であれば、自分の行動を自分で決め、自分の財産や身体を思いのままに処することができる。(第2章4)
自然状態に置かれていれば、そこには自然法があり、その支配が及んでいる。そこでは、だれもが自然法に服している。……人間は皆それぞれ平等で独立した存在なのだから、何人も他人の生命や健康、自由、財産を侵害してはならない。(第2章6)

 つまり、ホッブズが、まず闘争状態の自然状態があり、そこを脱するために自然法を見出すのだ、と段階的に考えたのに対し、ロックは自然状態の時点で既に自然法が支配していると考えました。何が違うかというと、ロックの考えでは、自然状態はホッブズが言うほどひどい状況ではない、ということです。

 

2.処罰の権利

 しかし、いくら自然法が支配しているからといっても、それを破る人間の存在が多少なりともいるということは、ロックも認識していました。そこでロックは、自然状態において、各人は、自然法を破った者に対して処罰を与える権利を有すると主張します。

万人が、他人の権利を侵すことや相互に危害を加えることを差し控え、平和と全人類の生存を命じる自然法を遵守する——そのような人間のあり方を保つために、……各人は、自然法に違反する者を処罰する権利を得るのである。(第2章7)
このように自然状態においては、人間は他の人間に対して支配する力を得る。しかしそれは、絶対的な、あるいは恣意的な支配力ではない。…(中略)…許されるのは、冷静な理性と良心の命ずるところに従って、犯罪に応じた罰を下すことだけである。処罰の度合いは、犯人に罪の償いをさせ、また犯罪を思いとどまらせるのに役立つ程度でなければならない。(第2章8)

 これに対してホッブズはどう言っていたでしょうか。ホッブズは、自然状態の人々が自分を守るために、「あらゆるものを自由に扱う権利を有する。そうした権利は他人の身体にまで及ぶ。」と述べ、先制攻撃すら認められると主張していました。一方、ロックは、人間が他の人間に対して持っているのは、「罰を下すことだけ」と述べます。ロックの考える自然状態では、自然法がすでに人々を支配しているので、先制攻撃をする必要はなく、事後的な懲罰によって「犯罪を思いとどまらせるのに役立つ程度」の抑止力があれば十分だと考えたのです。

 

3.程度問題?

 よく教科書などで、ロックの考える自然状態は「牧歌的」というような解説も目にするのですが、それはホッブズの考えと比較したら、ということであって、決してユートピアのような世界をロックが想像していたわけではありません(そもそも自然状態がユートピアなら、社会契約なんて必要ありませんから)。ロック自身、自然状態であっても、人々の権利が守られるとはいいがたいとして、以下のように述べています。

確かに、自然状態に置かれているとき人間はそのような権利を持っているが、しかしその権利を思いどおりにできるかというと、はなはだ不確かであり、ほかの人々から権利を侵害される危険が絶えずつきまとっている……大半の人々は、公正と正義を厳格に遵守しているわけではない。したがって、このような自然状態にある所有権は、ひどく危ういし、心許ない。(第9章123)

 ホッブズの自然状態は最悪の闘争状態ですが、ロックの自然状態がこれと質的に決定的に異なるかというと、そうでもないのかなと。せいぜい、ホッブズよりは自然法の支配が効いており、「やや良い」という程度なのではないかと思います。しかし、この程度問題が結論を大きく変えるのです。
 つまり、ホッブズの場合、自然状態は最悪ですから、どういう形態にせよ、国家があった方がましなのです。そのため、国家設立によって生じる多少の弊害(ホッブズによれば、どのような国家形態でも多かれ少なかれ欠点はある)は甘んじて受けるべきだとされました。
 他方、ロックの自然状態は比較的よい状態なので、「どんな国家形態であっても自然状態よりまし」とはなりません。むしろ、最悪な国家形態よりは自然状態の方がましなのです。ロックは絶対君主制を批判しつつ、以下のように述べます。

そのような仕組み[絶対君主制]とはいかなるものか。また、それは自然状態と比べてどれほど優れているのであろうか。なにしろそこでは、多数の人間を支配するひとりの人物が、当事者の身でありながら裁く自由を享受し、みずからの意向を一から十まで臣民に圧しつけるのである。一方、何人も、そのような意向を実行に移す人々に対して、疑問を呈したり掣肘を加えたりする自由はない。しかも、支配者の言動が理性によるものか、錯誤によるものか、あるいは激情によるものかを問うことなく、とにかく支配者のすることに従わなければならないのである。これと比べれば、自然状態の方が格段に望ましい。自然状態であれば、人々は他人の理不尽な意思に服従する義務はない。(第2章13)

 

4.国家の設立=社会契約

 ロックは、自然状態には次の3つの不備があると述べます。

第一の不備は、確立、定着した法、公認の法がないということである。(第9章124)

 あれ?さっき、自然法が支配していると言ってたじゃないか!と思いますが、ロックによれば、人間は自分本位の判断にとらわれがちだし、自然法の研究もおろそかなので、なかなか自然法の拘束力を認めないということなのです。つまり、自然法は存在するけど、守られないってことですね。

第二に、自然状態においては、公認の公平な裁判官が存在しない。(第9章125)

 人間は、わが身がかわいいので、自分のことになると客観的に正しい判断が下せないということです。

第三に、自然状態にあっては、正しい判決を支持、支援し、それをしかるべく執行する権力が欠けている。不正を働き罪を犯した連中は、状況が許す場合には必ずと言ってもよいほど、実力に訴えておのれの不正行為を正当化しようとする。(第9章126)

 悪い奴を処罰しようとすると、逆に返り討ちにあってしまうということですね。こうすると最終的には、力の強いものが正義になってしまいます。
 これらの不備があるので、人間は国家を結成するというのです。

人間が国家を結成し、みずからその統治に服す最大の目的は、所有権の保全にある。自然状態では不備が多くてそれができない。(第9章124)

 

5.法の支配

 国家設立の際に、人間は、もともと持っていた自由や、他人を処罰する権利を共同体に預けることになります。しかし、ロックは、共同体にゆだねられる権力には一定の制限があると考えます。3.で見たように、ロックの考えでは、国家さえ設立されればなんでもいいというわけではなく、自然状態よりよくなる必要があるからです。

共同体を結成するとき、人々は自然状態において保有していた平等・自由・執行権力を放棄し、社会の手にゆだねる。立法部はそれを、できるだけ社会の利益にかなうように用いなければならない。しかし、このような委託がおこなわれるのは、ほかでもない、各自が自由と所有権の保全を満足の行くものにしたいと願っているからである。したがって、社会の権力、すなわち人々が設けた立法部の権力は、公益を超えるところまで及ぶはずがない。(第9章131)

 では、どのような国家がよいとロックは考えているのか。ロックは、客観的で明文化された法律を備えることで、支配者の気まぐれによって国民の権利が侵害されにくいと考えました。

絶対的な恣意的権力は——確立済みの恒常的な法律を欠いた統治とも言い換えられるが——いずれにしても、社会および国家の目的と整合しない。……そうしたことをすれば、自然状態よりも劣悪な状態に陥ることになるからだ。……立法者の絶対的な恣意的権力にわが身をゆだねたのだとすれば、……立法者の気分次第で餌食にされるだろう。……国家がいかなる形態をとろうとも、支配権力が統治をおこなうにあたっては、明文化された公認の法律を用いるべきであって、その場限りの布告や曖昧な決議に頼るべきではない。(第11章137)

 そして、権利侵害の法律を防ぐには、立法部が常設ではなく、そのメンバーが短期的に入れ替わることが重要だとロックは説きます。なぜなら、そのメンバーもすぐに一介の国民に戻り、他の国民と同様に法に服すことになるのであれば、自分を苦しめるような法律は作らないであろうからです。

このような事態になることをさほど恐れなくても済む国もある。それは、メンバーの入れ替えを常としている合議体に、立法権力の全体または一部をゆだねている国である。そこでは合議体が解散されると、同時にその構成員も一介の臣民となり、ほかの人々と同様、共通の国法のもとに置かれるのである。しかし立法権を、メンバー不変の、解散のない恒久的な合議体か、あるいは絶対君主制のように一部の人物にゆだねている国もある。そこでは、……自分たちは共同体の他のメンバーと利害を異にすると考えるであろう。そして、人民の手から取り上げてもよかろうと独り決めしたものを収奪することにより、自分の富と権力の増大を図ろうという気持ちに駆られるであろう。(第11章138)

 

6.権力分立

 上記のように、ロックは立法部を、その都度招集されるような短期的・時限的な機関であるべきだと考えました。他方、法律を執行する機関は時限的なものでは成り立ちません。法律の効力は恒久的なので、その実効性を保つには、恒久的な力が必要だからです。こうして、国家権力は、短期的な立法権力と恒常的な執行権力に分離されるとロックは説きます。

法律というものは即座に、また短期間のうちに作られるが、その効力は恒常的、恒久的である。…したがって、…それを執行する権力を常設しておく必要がある。このような次第で、立法権力と執行権力は往々にして分離されるに至る。(第12章144)

 そして、立法部と執行部の関係は、立法部が上位であり、執行部はこれに従属する立場にあるとロックは考えました。

立法部はすなわち最高権力である。…というのも、法律を定める立場にある者は、法律を与えられる者よりも必ず優位に立っているはずだからである。…立法部以外のすべての権力は、…立法権力から派生したのであり、立法権力に従属しているにすぎない。(第13章150)

 これは、実は現在の権力分立の考え方とは異なるものです。多くの民主主義国家で採用されている三権分立の原則は、それぞれの権力が相互に均衡・抑制を図るものとされています。例えば、日本では、衆議院が不信任案を可決すれば、内閣は総辞職(あるいは衆議院解散)しなければなりませんが、他方で内閣も衆議院を解散することができるというように、力関係は双方向に向かっています。
 ロックは、国家権力が集中しては国民の権利保護に有害であるとして、権力を分離させるということは指摘しましたが、双方向での牽制ということまでは主張していなかったようです。
 ちなみに、ロックは立法権力と執行権力のほかに、外交権力も分離されると述べているのですが、今回は割愛させていただきます。

 

7.抵抗権

 何度もくどいようですが、ロックの考えによれば、国家は設立されればよいというわけではなく、自然状態よりも人々の生活を向上させなければ意味がないと考えていました。では、いったん国家が成立したのち、支配者が国民の権利を侵害し始め、自然状態よりも悪い状態に陥ったら、どうすればよいのでしょうか。このような場合、ロックは、国民が武力で抵抗する権利も持つと考えました。

社会にとって必要不可欠なもの、すなわち人民の安全を保ち人民を守るための基盤が、何らかの武力によってそこなわれたとしよう。その場合、人民はそのような武力を、みずからの武力をもって排除する権利がある。(第13章155)
……人民全体も個人も、権利を奪われたり謂れのない権力行使をこうむったりしながら地上に訴え出る場がない場合、十分に重要な理由があると判断すればいつでも、天に訴える自由がある。(第14章168)

 

8.まとめ

 教科書にも載っている、まさに社会契約論の大家として、民主主義の原理を打ち立てたロックの思想をご紹介しました。正直に言うと、私はホッブズの『リヴァイアサン』のほうが、精緻な議論で説得力もあり、ホッブズのほうが好きだなと感じました。ロックの議論は、何かこう、へりくつを述べているように感じる部分もありました。その一方で、現代の社会は、明らかにホッブズの絶対君主制ではなく、ロックの立法と執行の分離思想の上に出来上がっています。おそらく一度読んだだけではわからない含蓄も多分に含まれているように感じる一冊なので、また時間をあけて再読したいと思います。

 それでは!