On the Shoulders of Giants

古典読書で一般教養を学び直し

ロック『市民政府論』

ロックの『市民政府論』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。相変わらず角田氏の訳はとても読みやすく、前半はすいすいと読めていたのですが、後半から同じようなことの繰り返しが増えてきて、なんだかんだ読むのに1月以上もかかってしまいました。

この本はご存知のとおり、社会契約論の本です。原文はTwo Treaties of Governmentとあるように二編からなる論文らしいのですが、光文社の訳は現代の社会契約論に関係してくる後半、第二編のみを訳出しているそうです。前回のホッブズの思想と比較しながらご紹介したいと思います。

1.自然状態のとらえ方

 ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する闘争状態」ととらえました。自分の身は自分で守らなければならないような状況では、人々はいつ誰に襲われるかもわからず疑心暗鬼となり、自分の身を守るために、他者に先制攻撃することも許されるとしています。しかし、そんな状況ではいつ命を落とすかも分からないので、人々は自然法というものを見出し、安寧を求めようとする、というのがホッブズの考えでした。
 これに対し、ロックは、自然状態においては、すでに自然法が人々を規律していると考えます。つまり、自然状態においても、人々はお互いの生命や財産を侵害してはならないとロックは考えたのです。

人はもともと完全に自由な状態にあり、自然法の範囲内であれば、自分の行動を自分で決め、自分の財産や身体を思いのままに処することができる。(第2章4)
自然状態に置かれていれば、そこには自然法があり、その支配が及んでいる。そこでは、だれもが自然法に服している。……人間は皆それぞれ平等で独立した存在なのだから、何人も他人の生命や健康、自由、財産を侵害してはならない。(第2章6)

 つまり、ホッブズが、まず闘争状態の自然状態があり、そこを脱するために自然法を見出すのだ、と段階的に考えたのに対し、ロックは自然状態の時点で既に自然法が支配していると考えました。何が違うかというと、ロックの考えでは、自然状態はホッブズが言うほどひどい状況ではない、ということです。

 

2.処罰の権利

 しかし、いくら自然法が支配しているからといっても、それを破る人間の存在が多少なりともいるということは、ロックも認識していました。そこでロックは、自然状態において、各人は、自然法を破った者に対して処罰を与える権利を有すると主張します。

万人が、他人の権利を侵すことや相互に危害を加えることを差し控え、平和と全人類の生存を命じる自然法を遵守する——そのような人間のあり方を保つために、……各人は、自然法に違反する者を処罰する権利を得るのである。(第2章7)
このように自然状態においては、人間は他の人間に対して支配する力を得る。しかしそれは、絶対的な、あるいは恣意的な支配力ではない。…(中略)…許されるのは、冷静な理性と良心の命ずるところに従って、犯罪に応じた罰を下すことだけである。処罰の度合いは、犯人に罪の償いをさせ、また犯罪を思いとどまらせるのに役立つ程度でなければならない。(第2章8)

 これに対してホッブズはどう言っていたでしょうか。ホッブズは、自然状態の人々が自分を守るために、「あらゆるものを自由に扱う権利を有する。そうした権利は他人の身体にまで及ぶ。」と述べ、先制攻撃すら認められると主張していました。一方、ロックは、人間が他の人間に対して持っているのは、「罰を下すことだけ」と述べます。ロックの考える自然状態では、自然法がすでに人々を支配しているので、先制攻撃をする必要はなく、事後的な懲罰によって「犯罪を思いとどまらせるのに役立つ程度」の抑止力があれば十分だと考えたのです。

 

3.程度問題?

 よく教科書などで、ロックの考える自然状態は「牧歌的」というような解説も目にするのですが、それはホッブズの考えと比較したら、ということであって、決してユートピアのような世界をロックが想像していたわけではありません(そもそも自然状態がユートピアなら、社会契約なんて必要ありませんから)。ロック自身、自然状態であっても、人々の権利が守られるとはいいがたいとして、以下のように述べています。

確かに、自然状態に置かれているとき人間はそのような権利を持っているが、しかしその権利を思いどおりにできるかというと、はなはだ不確かであり、ほかの人々から権利を侵害される危険が絶えずつきまとっている……大半の人々は、公正と正義を厳格に遵守しているわけではない。したがって、このような自然状態にある所有権は、ひどく危ういし、心許ない。(第9章123)

 ホッブズの自然状態は最悪の闘争状態ですが、ロックの自然状態がこれと質的に決定的に異なるかというと、そうでもないのかなと。せいぜい、ホッブズよりは自然法の支配が効いており、「やや良い」という程度なのではないかと思います。しかし、この程度問題が結論を大きく変えるのです。
 つまり、ホッブズの場合、自然状態は最悪ですから、どういう形態にせよ、国家があった方がましなのです。そのため、国家設立によって生じる多少の弊害(ホッブズによれば、どのような国家形態でも多かれ少なかれ欠点はある)は甘んじて受けるべきだとされました。
 他方、ロックの自然状態は比較的よい状態なので、「どんな国家形態であっても自然状態よりまし」とはなりません。むしろ、最悪な国家形態よりは自然状態の方がましなのです。ロックは絶対君主制を批判しつつ、以下のように述べます。

そのような仕組み[絶対君主制]とはいかなるものか。また、それは自然状態と比べてどれほど優れているのであろうか。なにしろそこでは、多数の人間を支配するひとりの人物が、当事者の身でありながら裁く自由を享受し、みずからの意向を一から十まで臣民に圧しつけるのである。一方、何人も、そのような意向を実行に移す人々に対して、疑問を呈したり掣肘を加えたりする自由はない。しかも、支配者の言動が理性によるものか、錯誤によるものか、あるいは激情によるものかを問うことなく、とにかく支配者のすることに従わなければならないのである。これと比べれば、自然状態の方が格段に望ましい。自然状態であれば、人々は他人の理不尽な意思に服従する義務はない。(第2章13)

 

4.国家の設立=社会契約

 ロックは、自然状態には次の3つの不備があると述べます。

第一の不備は、確立、定着した法、公認の法がないということである。(第9章124)

 あれ?さっき、自然法が支配していると言ってたじゃないか!と思いますが、ロックによれば、人間は自分本位の判断にとらわれがちだし、自然法の研究もおろそかなので、なかなか自然法の拘束力を認めないということなのです。つまり、自然法は存在するけど、守られないってことですね。

第二に、自然状態においては、公認の公平な裁判官が存在しない。(第9章125)

 人間は、わが身がかわいいので、自分のことになると客観的に正しい判断が下せないということです。

第三に、自然状態にあっては、正しい判決を支持、支援し、それをしかるべく執行する権力が欠けている。不正を働き罪を犯した連中は、状況が許す場合には必ずと言ってもよいほど、実力に訴えておのれの不正行為を正当化しようとする。(第9章126)

 悪い奴を処罰しようとすると、逆に返り討ちにあってしまうということですね。こうすると最終的には、力の強いものが正義になってしまいます。
 これらの不備があるので、人間は国家を結成するというのです。

人間が国家を結成し、みずからその統治に服す最大の目的は、所有権の保全にある。自然状態では不備が多くてそれができない。(第9章124)

 

5.法の支配

 国家設立の際に、人間は、もともと持っていた自由や、他人を処罰する権利を共同体に預けることになります。しかし、ロックは、共同体にゆだねられる権力には一定の制限があると考えます。3.で見たように、ロックの考えでは、国家さえ設立されればなんでもいいというわけではなく、自然状態よりよくなる必要があるからです。

共同体を結成するとき、人々は自然状態において保有していた平等・自由・執行権力を放棄し、社会の手にゆだねる。立法部はそれを、できるだけ社会の利益にかなうように用いなければならない。しかし、このような委託がおこなわれるのは、ほかでもない、各自が自由と所有権の保全を満足の行くものにしたいと願っているからである。したがって、社会の権力、すなわち人々が設けた立法部の権力は、公益を超えるところまで及ぶはずがない。(第9章131)

 では、どのような国家がよいとロックは考えているのか。ロックは、客観的で明文化された法律を備えることで、支配者の気まぐれによって国民の権利が侵害されにくいと考えました。

絶対的な恣意的権力は——確立済みの恒常的な法律を欠いた統治とも言い換えられるが——いずれにしても、社会および国家の目的と整合しない。……そうしたことをすれば、自然状態よりも劣悪な状態に陥ることになるからだ。……立法者の絶対的な恣意的権力にわが身をゆだねたのだとすれば、……立法者の気分次第で餌食にされるだろう。……国家がいかなる形態をとろうとも、支配権力が統治をおこなうにあたっては、明文化された公認の法律を用いるべきであって、その場限りの布告や曖昧な決議に頼るべきではない。(第11章137)

 そして、権利侵害の法律を防ぐには、立法部が常設ではなく、そのメンバーが短期的に入れ替わることが重要だとロックは説きます。なぜなら、そのメンバーもすぐに一介の国民に戻り、他の国民と同様に法に服すことになるのであれば、自分を苦しめるような法律は作らないであろうからです。

このような事態になることをさほど恐れなくても済む国もある。それは、メンバーの入れ替えを常としている合議体に、立法権力の全体または一部をゆだねている国である。そこでは合議体が解散されると、同時にその構成員も一介の臣民となり、ほかの人々と同様、共通の国法のもとに置かれるのである。しかし立法権を、メンバー不変の、解散のない恒久的な合議体か、あるいは絶対君主制のように一部の人物にゆだねている国もある。そこでは、……自分たちは共同体の他のメンバーと利害を異にすると考えるであろう。そして、人民の手から取り上げてもよかろうと独り決めしたものを収奪することにより、自分の富と権力の増大を図ろうという気持ちに駆られるであろう。(第11章138)

 

6.権力分立

 上記のように、ロックは立法部を、その都度招集されるような短期的・時限的な機関であるべきだと考えました。他方、法律を執行する機関は時限的なものでは成り立ちません。法律の効力は恒久的なので、その実効性を保つには、恒久的な力が必要だからです。こうして、国家権力は、短期的な立法権力と恒常的な執行権力に分離されるとロックは説きます。

法律というものは即座に、また短期間のうちに作られるが、その効力は恒常的、恒久的である。…したがって、…それを執行する権力を常設しておく必要がある。このような次第で、立法権力と執行権力は往々にして分離されるに至る。(第12章144)

 そして、立法部と執行部の関係は、立法部が上位であり、執行部はこれに従属する立場にあるとロックは考えました。

立法部はすなわち最高権力である。…というのも、法律を定める立場にある者は、法律を与えられる者よりも必ず優位に立っているはずだからである。…立法部以外のすべての権力は、…立法権力から派生したのであり、立法権力に従属しているにすぎない。(第13章150)

 これは、実は現在の権力分立の考え方とは異なるものです。多くの民主主義国家で採用されている三権分立の原則は、それぞれの権力が相互に均衡・抑制を図るものとされています。例えば、日本では、衆議院が不信任案を可決すれば、内閣は総辞職(あるいは衆議院解散)しなければなりませんが、他方で内閣も衆議院を解散することができるというように、力関係は双方向に向かっています。
 ロックは、国家権力が集中しては国民の権利保護に有害であるとして、権力を分離させるということは指摘しましたが、双方向での牽制ということまでは主張していなかったようです。
 ちなみに、ロックは立法権力と執行権力のほかに、外交権力も分離されると述べているのですが、今回は割愛させていただきます。

 

7.抵抗権

 何度もくどいようですが、ロックの考えによれば、国家は設立されればよいというわけではなく、自然状態よりも人々の生活を向上させなければ意味がないと考えていました。では、いったん国家が成立したのち、支配者が国民の権利を侵害し始め、自然状態よりも悪い状態に陥ったら、どうすればよいのでしょうか。このような場合、ロックは、国民が武力で抵抗する権利も持つと考えました。

社会にとって必要不可欠なもの、すなわち人民の安全を保ち人民を守るための基盤が、何らかの武力によってそこなわれたとしよう。その場合、人民はそのような武力を、みずからの武力をもって排除する権利がある。(第13章155)
……人民全体も個人も、権利を奪われたり謂れのない権力行使をこうむったりしながら地上に訴え出る場がない場合、十分に重要な理由があると判断すればいつでも、天に訴える自由がある。(第14章168)

 

8.まとめ

 教科書にも載っている、まさに社会契約論の大家として、民主主義の原理を打ち立てたロックの思想をご紹介しました。正直に言うと、私はホッブズの『リヴァイアサン』のほうが、精緻な議論で説得力もあり、ホッブズのほうが好きだなと感じました。ロックの議論は、何かこう、へりくつを述べているように感じる部分もありました。その一方で、現代の社会は、明らかにホッブズの絶対君主制ではなく、ロックの立法と執行の分離思想の上に出来上がっています。おそらく一度読んだだけではわからない含蓄も多分に含まれているように感じる一冊なので、また時間をあけて再読したいと思います。

 それでは!

ホッブズ『リヴァイアサン II』

こんにちは。中ダレして、前回投稿から大分時間がかかりましたが、ようやく第2部を読破いたしました。なお、今回も引用は光文社古典新訳文庫(角田安正訳)からのものです。

第2部では、国家設立の根拠となる社会契約が臣民自身によって結ばれたものであること、国家の形態いかんにかかわらず、国家の支配があった方が無政府状態や内戦よりはるかにましであることを主張し、当時の革命勢力による政権転覆を厳しく批判します。また、主権は分割できず、立法権は議会ではなく国王にあるというのもホッブズの特徴的な考えです。

 

1.第1部のおさらい

本論に入る前に、まず第1部の内容のおさらいをご紹介します。人間は本来、闘争に陥りやすい性質を持っているため、自然状態では万人の万人に対する戦争状態に陥る。しかし、理性の力によってお互いの権利行使(要は奪い合い・殺し合い)を制限する契約を結ぶことで、平和が達成される。この契約を担保するものこそが、国家権力である。ざっくりいうとこういうことでした。そして、第2部では、この国家権力を生み出す契約について、詳しい説明が期待されているのでした。(第1巻について詳しくはこちら

 

2.国家権力確立の必要性

第2部ではまず、人々の契約がなぜ国家権力の樹立という形をとるのか、という背景について説明がなされます。ホッブズは、自然状態を打開するためには、人々が単に合意するだけでは、単なる絵空事にすぎず、実効性がないと述べます。人々がお互いに攻撃し合わないという契約を確実なものとするには、武力を持った国家権力がにらみを効かせる必要であると言うのです。

武力による裏づけのない契約は、単なる言葉にすぎない。そこには人間の安全を守る力はいささかもない。

・・・(中略)・・・
外敵の侵入や仲間同士の権利侵害から人々を守ってやり、そうすることによって十分に安全を確保してやることが必要である。そうするだけの能力をもった公的な権力を樹立するには、方法は一つしかない。すなわち、あらゆる力をすべて一人の人間または一個の合議体にさずけるのである。(第17章)

 

3.国家樹立の契約

では、国家を樹立する契約とは具体的にどのようなものなのでしょうか。ホッブズは、国家の成立過程を「制定による国家」「獲得に基づく国家」の二種類に分けて論じていきます。


(1)制定による国家

制定による国家とは、自然状態において人々が自発的に結んだ契約による国家です。その成立過程は以下のような契約によります。

契約は、各人が各人に対して次のように宣言する形でおこなわれる(もっとも、これは擬制であって実際にそのようなことをするわけではない)。「みずからを治める権利を、私はこれこれの人に(あるいは、これこれの合議体に)譲渡する。ただし、それには条件がある。すなわち、あなたもみずからの権利を同じ人物に譲渡し、その人物のすべての行動を正当と認めなければならない。」このような手続きが完了し、多数の人々が合流して一個の人格を帯びると、それは、英語では国家(コモンウェルス)、ラテン語ではキウィタスと呼ばれる。こうして誕生したのが、強大な怪物リヴァイアサンである。(第17章)


ここで面白いのが、この契約は国家主権者と臣民の間でなされるものではなく、臣民同士で結ばれるということです(私は高校時代から今までずっと誤解していました。)。

臣民同士の契約だとどういうことが起こるのでしょう?なんと、主権者と臣民の間で契約が解除できないのです。

その根拠となるのは、もっぱら臣民が相互に結ぶ契約であって、主権者がいずれかの臣民との間に結ぶ契約ではない。そうである以上、主権者の側で契約を破棄するという事態はあり得ない。したがって、臣民は、よしんば主権を剥奪したという口実を設けたとしても、主権者に対する服従の義務から解放されることはない。(第18章)

 

(2)獲得にもとづく国家

もう一つの契約形態、獲得による国家とはどういうものでしょうか。これはまさに征服者に対し、命を助けてもらうかわりに、征服者の支配を受け入れることによって成立します。

勝利者がこうした支配を獲得するのはいかなる場合か。征服される側が、迫り来る死の一撃を免れようとするあまり、明白な言葉によって、あるいはその他の意思表示によって「生命と身体の自由さえ許されるなら、それを好きなように使ってもらっても構わない」と約束する場合である。(第20章)

 

ここでホッブズは、征服者に単に征服されるだけでは、社会契約は成立しないと述べます。獲得による国家の社会契約が成立するには、征服された側が、征服者の支配を受け入れるという意思表示をすることが必要というのです。確かに、どんなに敗北が確定していても、抵抗を続けるのであれば、支配も成立しませんね(命を落とすかもしれませんが)。

したがって、被征服者を支配する権利が得られるのは、勝利したからではなく、当の被征服者が契約に応じるからなのだ。被征服者は、征服されたからといって義務を負うわけではない。勝利者の側にみずから進んで服従するからこそ義務を負うのである。(第20章)


つまり、人々の合意によって制定された国家のみならず、征服によって成立した国家であっても、社会契約は臣民自身が結んだものであり、臣民が勝手に変えることはできないのです。

しかしどちら<制定による国家と獲得にもとづく国家>においても、主権にそなわる権利および威力に違いはない。主権者の権利は、当の主権者の同意なしに他人に譲り渡されることはない。剥奪されることもない。主権者はまた、臣民から権利侵害を理由に告発されたり、罰せられたりすることはない。主権者は、安寧秩序にとって必要なものを判断し、[国の]基本方針を定める。主権者は唯一の立法者であり、[国内の]紛争を裁定し、開戦と講和の時機を決定する至高の判定者である。執政官・顧問官・司令官やその他のあらゆる行政官および執行人を選任し褒賞を与え、処罰を下し、爵位・勲等・官位を叙するのも主権者の役目である。(第20章)


4.国家の形態

古来、プラトン、アリストテレスの頃から、国家にはどのような形態があるかが議論されてきましたが、ホッブズもこの問題に挑みます。ホッブズによれば、国家には君主制、貴族制、民主制の3種類しかないと述べます。

国家には三種類しかない。なぜか。代表者は一人であるか、さもなければ複数であるはずであり、後者の場合、その合議体には国民の全員が参加するか、国民の一部が参加するかのいずれかだからである。

一人の人間が国家を代表する場合、それは君主制である。集まる者全員から成る合議体が国家を代表する場合、それは民主制(大衆の国家)である。一部の者が国家を代表するのは貴族制である。

・・・(中略)・・・しかし、史書や、政治に関する書物をひもとくと、専制や寡頭制のように、それらとは異なる統治形態の名称が見受けられる。しかしそれは、別の統治形態を指しているわけでなくて、当該の統治形態がいやがられている場合にそう呼ばれるのである。(第19章)


史書や政治に関する書物というものの中には当然プラトンやアリストテレスも含まれているのでしょう。特にアリストテレスは君主制、貴族制、民主制の3つを、それぞれいい政治・悪い政治の2つに分ける六政体論を唱えたのですが、ホッブズによれば、まさにそれは「いやがられている場合にそう呼ばれる」だけであって、別の統治形態という訳ではないのです。

そして、さらに重要なことに、ホッブズは(君主制を支持していることは見え隠れするものの)これらの政体はいずれも一長一短があるのだと主張します。

君主に支配されて暮らしている人々は、自分たちの境遇を君主制のせいだと考える。また、民主制の統治機関あるいは主権をそなえた合議体の支配下で暮らしている人々は、厄介なことをことごとく国家の形態のせいにする。ところが権力は、いかなる形態をまとうにせよ、そうした権力形態が人々を守るのに十分に整っているのであれば、大同小異である。

・・・(中略)・・・
人々が見落としている事柄がある。それは、人の属するいずれの政体にも、必ず何らかの不都合がつきまとうということである。また、最悪の統治形態のもとで人民一般がこうむる(かもしれない)最大の不都合といえども、内戦や無政府状態にくらべれば取るに足らぬということである。(第18章)


つまり、いずれの政体であっても、内戦に比べればはるかにましだというのです。そもそも国家は、臣民自ら、または彼らの先祖が結んだ社会契約によって成立しているのだから、現状を受け入れるのが当然であり、そうした方が臣民にとっても利益がある、とホッブズは言いたいのでしょう。

リヴァイアサンが執筆された頃、英国では清教徒革命が勃発し、国王チャールズ1世が処刑されるなど、激動の中にありました。ホッブズ自身、フランスに亡命していたことからも、主権者に反旗をひるがえす革命の動きを批判するというのがこの本の重要なテーマであると言えます。


5.権力分立への批判

ところで、啓蒙思想時代の政治思想と言えば、三権分立を思い浮かべるところですが、この点についてホッブズはどのように考えていたのでしょうか。実はホッブズは主権を分割することに非常に否定的です(逆に言えば、ホッブズがわざわざ権力分立を否定しているところを見ると、既にこの時代には、国家権力の分割という考えが相応の地位を占めていたとも言えます)。

これらの権限は国王・貴族院[上院]・庶民院[下院]のあいだで分割されているのだという見解がある。そもそもこのような見解がイングランドの大部分で受け入れられていなかったら、国民が分裂し内乱状態に陥るということはなかったであろう。(第18章)


さすが議会の国、イギリスですね。国王と議会の間での権力均衡の考え方が既に広まっていたのでしょう。しかし、ホッブズは、このような構造は均衡をもたらすのではなく、党派対立をもたらすだけだとして批判しているのです。

たとえば、徴税を国全体の合議体にゆだね、指揮および命令の権力を一個の人間にゆだねる。そして、この二つの委任先に第三のものを加えて、その三者間でたまたま運良く成立する合意に、法制定の権力をゆだねるーー。このようなことをすると、国家は危殆に瀕する。・・・(中略)・・・こうした統治は統治ではなく、国家を三つの党派に分割するものである。・・・(中略)・・・神の王国であれば、君臨する神の中に三個の独立した人格が統一を保ったまま共存するということはあり得る。だが、人間の治めている国ではそのようなことはあり得ない。人によって意見がまちまちだからである。(第29章)

 

6.議会について

現代において、議会は立法機関と捉えられていますが、権力分立に批判的なホッブズは、議会の存在を立法機関だとは考えません。

あらゆる国家において立法者となる者は主権者に限られる。・・・(中略)・・・

「公民法を司るのは議会だけである」という見解がある。ところが、この命題が真であるのは、議会が主権を握っていて、招集も解散もみずからの裁量によって決めるという仕組みになっているときだけである。(第26章)


つまり、国王がおらず、議会が主権を持っているような国であれば、議会が立法機関であると言えますが、国王の下にある議会は立法機関ではない、というのがホッブズの考えです。

では議会は何のための組織なのか。それは、主権者の諮問に答え、臣民の声を届けるのが、議会の役目だとホッブズは考えます。

たとえばある王国では、六百年にわたる世襲にもとづいて主権を得た者だけが、主権者と称されていた。また、臣民から陛下という尊称をささげられ、疑問の余地なく臣民に国王として受け入れられていた。にもかかわらず、臣民の代表とはけっして見なされていなかった。それでいて代表という名称は、国王の命令を受けて国王のもとに派遣される人々の名として、すなわち人民の請願を届け、(国王が許可する場合には)人民の進言を伝える人々の名として、何の矛盾もなく通用していたではないか。(第19章)

 

ここで「代表」や「国王のもとに派遣される人々」というのは、おそらく国会議員のことを指しているのでしょう。主権者と臣民の代表、つまり国王と議会は両立するのだということです。

たとえば、主権を持った君主または合議体が、領土内の各都市やその他の地域に対し、「代表者を一名送ってよこせ」と命令を下すことが適当であると判断したとしよう。主権者は代表者に何を求めるのか。それは、臣民の暮らし向きや困り事を報告することであったり、優れた法律を制定するために、あるいはその他の事業を成し遂げるために、国を代表する人格としての主権者に対して建言することであったりする。・・・(中略)・・・しかし、そのようなことは、主権にもとづいて代表者の派遣を命じた個人または合議体が、それら代表者に対して諮問した案件に関してだけ認められるのである。(第22章)


この時代、スコットランド反乱鎮圧や敗戦に伴う戦費調達のため、2度にわたりイングランド国王が議会を召集したのですが、議会は国王の意に反する改革を進め、最後には国王を処刑するまでに至ってしまいました。議会は国王に諮問されたことだけを助言するものであって、法律の制定権はない、というのは、まさにこのような革命を批判するものです。


7.まとめ

長々と書いてきましたが、第2部の主張は次の3つにまとめられるでしょう。


①征服によるものであれ、民主的な合意によるものであれ、国家とは臣民自身が社会契約によって生み出したものであり、臣民が一方的に解除できるものではない。

②君主制であろうと民主制であろうと一長一短はあるが、無政府状態や内戦に比べれば、はるかにましである。

③権力は分割することができない。君主制における議会は君主の諮問機関に過ぎず、立法権は主権者たる君主に帰属する。


ホッブズはかなり緻密な議論を展開しており、奥深い世界を十分には消化しきれていませんが、一読するだけでも、この思想家の偉大さがわかりました。本当は第3部、第4部もあるのですが、それはまた気が向いたら挑戦しようと思います。それでは!

ホッブズ『リヴァイアサンI』

お久しぶりです。今回は、あの有名な「万人の万人に対する闘争」を唱えたホッブズ『リヴァイアサン』第1部をご紹介したいと思います。(以下、引用はすべて角田安正訳、光文社古典新訳文庫からのものです。)

ホッブズによれば、国家が成立する以前の自然状態では、人間は万人の万人に対する闘争状態に置かれます。この闘争を終わらせるために、人間は互いに契約を結ぶ必要があるというのが、第1部の主な内容です。


1.本のタイトル、リヴァイアサンとは?

まず、タイトルとなっているリヴァイアサンとは何か。

リヴァイアサンとは旧約聖書に出てくる海の怪物の名前らしいです。この怪物の絵は、書物『リヴァイアサン』の表紙にもなっているのですが、そこでは、王冠をかぶった国王らしき人物の姿として描かれています。しかも、この国王っぽい怪物の身体をよく見てみると、小さな人間が無数に集まってできています。

f:id:on_the_shoulders_of_giants:20180630133840j:image


この表紙が意味するところは、「はじめに」で明かされています。

まさに人間の技術によって創造されたものに、彼の偉大なるリヴァイアサンがある。リヴァイアサンは国家と呼ばれているが、実は一種の人造人間にほかならない。自然の人間よりも巨大かつ強力であり、自然の人間を守ることを任務としているところに特徴がある。(はじめに)


つまり、ホッブズの考える国家とは、人間が自分たちを守るために作り出した人造人間であるというのです。


2.本の構成

ホッブズは国家=リヴァイアサンの性質を明らかにしていくにあたって、次の順序を踏むと述べています。

この人造人間の性質を説明するにあたって、次の各項を検討したい。

一.人造人間の素材と制作者。ちなみにどちらも人間である。

二.人造人間はどのようにして、またいかなる契約によって作られるのか。主権者の権利、また、その正当な権力ないし権限はどのようなものか。この人造人間を維持し、解体するのは何か。

三.キリスト教的国家とは何か。

四.暗黒の王国とは何か。

(はじめに)


『リヴァイアサン』は4部構成となっており、おそらくですが、上記の一が第1部、二が第2部・・・となっているのではないかと思われます。(まだ全部読んでないので、違っていたらすみません。)


第1部は「人間について」と題されています。人間の感じる感覚から始まり、思考、言葉、学問、宗教などについて述べられています。ここはここで、非常に読み応えのある部分であり、説得力のある考察が行われるのですが、論文全体にどのように関連しているのかがイマイチわかりづらい(私が理解できていない)ので、説明は割愛して、第1部の核心であろう↓までスキップさせてください。


3.自然状態:万人の万人に対する闘争

人間についての様々な考察の後、ホッブズは人間は本来平等であると述べます。身体的能力や知的能力において、多少の個人差はあるとしても、総合すれば各人の差は微々たるものだというのがホッブズの主張です。


各人の差が大してないとすると、人間は限られた資源をお互いに奪い合おうとします。ホッブズはこれを敵愾心と呼びました。


そして、国家権力が存在せず、自分の身は自分で守らなければならないような状況では、自分の財産はおろか、生命も保障されないと考えました。そうすると、相手から利益を奪うという目的だけではなく、自分の身を守るために、先手を打って相手を攻撃する必要もでてきます。つまり相手がいつ襲ってくるか分からないという猜疑心からの攻撃です。


ホッブズはさらに続けます。人はささいな発言や笑いなどで他人から過小評価されていると感じると、その人を攻撃しなければ気がすまなくなると言います。これが自負心です。

人間の本性には紛争の原因となることが主として三つあることが分かる。第一に、敵愾心。第二に、猜疑心。第三に、自負心。・・・(中略)・・・以上のことから明らかであるが、だれをも畏怖させるような共通の権力を欠いたまま生活している限り、人間は戦争と呼ばれる状態、すなわち万人が万人を敵とする闘争状態から抜け出せない。(第13章)


このように、人間は互いに争い合う性質があり、政府や法律が成立する以前の状態(=自然状態)では、まさに万人の万人に対する戦争状態を免れないというのです。


4.自然権:他人に手をかけることも許される

ホッブズは上記のように自然状態は「万人の万人に対する戦争状態」であると述べた上で、人間が本来もっている権利(自然権)と本来守るべき義務(自然法)について考察を進めます。


ホッブズは、万人の万人に対する戦争状態にある人間は、自分の身を守るために他人の命を奪う権利さえあると述べます。そりゃそうですよね。攻撃しなければ自分が殺されるかもしれないのですから。

自己の生命を敵から守る際、自分の助けになるのであれば何を利用しても許される。このことからさらに次のことが導かれる。すなわち、そのような状態に置かれている限り各人は、あらゆるものを自由に扱う権利を有する。そうした権利は他人の身体にまで及ぶ。(第14章)


5.自然法:権利を放棄すべき

しかし、このような状況では誰も天寿をまっとうすることができません。そのため、このような不都合を解消するために、人々は守るべき物事の道理、自然法を見いだした、というのがホッブズの主張です。


自然法とは、古代ギリシャ・ローマの頃から考えられていた思想で、要は法律が制定されていなくても守るべき道徳のことです。例えば、殺人を犯すと警察に捕まるから人を殺してはいけないのでしょうか?そうではなく、殺人罪という罪が刑法に書かれていてもいなくても、そもそも人を殺してはいけないというのが自然の道理だと思います。このように、法律の有無にかかわらず、人には守るべき道徳(自然法)があり、人は理性の力で自然法を見出すことができる、という考え方が自然法思想です。(自然法に関する古代ローマの思想については前回の記事も参照)。


ホッブズは、重要な自然法を考察します。中でも重要なのは、①自分の身を守りつつも、平和を目指すべきこと、②平和及び自己防衛のためであれば自然権を進んで放棄すべきこと、という2つです。

<基本的な自然法>「平和を勝ちとるための努力は、希望が持てる限り続けるべきである。平和を達成できないのであれば戦争の中から、自分にとって役立つもの、自分にとって有利に働くものをすべて引き出し、それを活用することが許される。」

(中略)

<第二の自然法>平和を求めて努力せよと命ずるこの第一の自然法から、次の第二の自然法が導き出される。「平和と自己防衛のために必要であると判断される限りにおいて、他の人々の同調が得られるという前提条件のもとで、『あらゆるものを自由に扱う権利』を進んで放棄しなければならない。・・・(略)・・・」(第14章)


6.契約:相互に権利を譲渡

上記、権利を放棄すべきという第二の自然法こそ、ホッブズの思想にとって非常に重要な部分です。ホッブズはこの権利の放棄について、さらに詳しく説明を続けます。

権利の手放し方には二種類ある。単に放棄するか、あるいはだれかに譲渡するかのいずれかである。

(中略)

権利を放棄または譲渡するとき、人は、それと交換に譲渡してもらえる何らかの権利を念頭に置いている。あるいは、それによって期待できる利益を見込んでいる。

(中略)

権利を相互に譲渡することを、人は契約と呼ぶ。(第14章)


つまり、第二の自然法により、「他の人々の同調が得られるという」前提のもとではありますが、人々は他人の命を奪うという自然権を手放すべきであり、その見返りとして相手からも自分の命を保障してもらう。このような権利の相互譲渡を契約とホッブズは定義しました。


しかし、ことはそう簡単には進みません。

純然たる自然状態(すなわち、万人の万人に対する戦争状態)が成立している場合、根拠のある疑念が生じると契約はただちに無効になる。・・・(中略)・・・先に履行する者には、相手側が後に続くという保証はない。・・・(中略)・・・したがって、先に履行する者は自分自身を敵に売り渡すも同然である。(第14章)


恐ろしいほどのリアリズムですね。自分が契約上の義務を果たしても、相手が守ってくれるかわかりません。もっとも、ホッブズも何らかの手立てによって、両者間に信頼関係があれば契約は成立すると述べています。しかし、自然状態ではそのような契約は非常に脆く崩れやすいということなのです。

では、どのようにして契約は有効になるのでしょうか。ホッブズは、国家権力こそが契約を有効にする手段だと述べます。

だが、両者を従える共通の権力が君臨し、契約の履行を強制するのに十分な権利と実力とをそなえているなら、契約は無効にならない。・・・(中略)・・・国家が成立しているところには権力があり、みずからの信約を破ろうとする者は拘束される。したがって、もはや右の不安は根拠薄弱ということになる。だからこそ、契約によって先に履行することになっている者は、履行を義務づけられるのである。(第14章)


つまり、国家権力があれば、相手が義務を守らないかもしれないという不安は考える必要がない(仮に相手が義務を果たさなければ国家権力によって制裁を受ける)。そのため、先に履行を果たすべき者は、躊躇なく義務を果たすことができるし、そうする必要があるということです。


7.まとめ

ホッブズは、人間は本来、闘争に陥りやすく、自然状態は万人の万人に対する戦争状態であるというところから議論を出発させました。このような状況において、人間が理性の力によって自然法を認識し、お互いに権利を制限する契約を結ぶことで平和が達成されると考えたのです。他方、この契約は非常に不安定なものであり、この契約の履行を担保するものこそが国家権力であると述べます。

まさに、国家=リヴァイアサンの素材と制作者である人間が、どのような性質を持っており、どのような必然性によって国家を作り出したのかが第1部の内容でした。おそらく、続く第2部では、こうして必要性が生じた国家が、どのような契約で成立したのかが説明されるのだと思います(予想ですが)。

 

8.余談

古代から政治思想史の古典を読み進めてきましたが、やはり17世紀ともなると、説得力も半端ないですね。プラトンなどのように、ふわふわとした関係なさそうな比喩でごまかされたりしないですし。

私にとって、ホッブズという名は世界史でキーワードとしてのみ知っている程度でしたが、実際に著作を読むと深い世界が広がっていますね。

第2部を読み終えたらご紹介したいと思います。

キケロ『法律について』

前回に続きキケロの著作です。

ローマは現代の法学にも大きな影響を与えているとされますが、そのローマで生きた政治家・哲学者キケロは、自然法という思想を持っていました。


1.自然法理論

キケロは、法律とは文書として書かれたものではなく、宇宙全体を支配する理性、すなわち神の意思であると述べます。元老院や民会の決議によって定められなくても、この宇宙全体に絶対的な倫理が存在しているというのです。

法律は人間の頭で考えられたものでもなく、国民のなんらかの決議でもなく、命令し禁止する知恵によって宇宙全体を支配する、何か永続的なものである。(第2巻第10章)


キケロは、立派な人が立派な行動をするのは、法律で決まっているから、あるいは悪いことをすると法律で罰せられるから、という理由であってはならないと説きます。そうではなく、立派なことそれ自体を追求することこそが徳であり、明文化された法律にかかわらず、高い倫理観を持たなければならないと述べるのです。

人が好き放題をしないのは、不名誉を恐れるためなのか、あるいは、法律と裁判を恐れるためなのか。・・・わたしには恥ずかしいことだ。(第1巻第19章)

法とすべての立派なことはそれ自体のために求めるべきだということになる。・・・代価や報酬を求めるものではけっしてない。(第1巻第18章)


2.感想

人間が何も決めなくても、この世界には客観的・絶対的な善があるという考えは、プラトンのイデア論につながるように思われます。キケロはプラトンを非常に尊敬しているようで、事実、著作の中でもプラトンにたびたび言及がなされます(それに比べると、アリストテレスへの言及はあまりなく、言及のされ方もプラトンの弟子の一人という扱いです。)。


なお、この自然法という考え、一見、現代には関係ないことのように思われます。しかし、例えば国際政治の場ではどうでしょう。シリアが化学兵器を使用したとの疑惑に対し、アメリカは武力攻撃を実施しました。あるいは、各国における人権侵害も(たとえその国内では合法であっても)国際社会の批判にさらされることがあります。


基本的人権、あるいは人道に対する罪というのは、ある意味ではキケロの言う自然法として捉えられているといえ、たとえ明文化されていなくても、各国が遵守すべきだとの意見は(特に欧米諸国に)少なからず存在するように思えます。

キケロ『国家について』

キケロ『国家について』(『キケロー選集8』岡道夫訳、岩波書店)を読みました。

1.キケロって?

キケロ(紀元前106年~紀元前43年)は、古代ローマにおいて活躍した政治家であり、哲学者でもあります。政治家としては、最高の行政官である執政官(共和制ローマの平時では最高の行政官。任期は1年で、2人で国政を担った。)をも務め、弁論の達人であったとも評されます。


訳者岡道夫氏の解説によれば、キケロが『国家について』を執筆した紀元前50年代後半は、ユリウス・カエサルが政敵ポンペイウスと争い、国論が二分された時代でした。キケロは、同様に国論が二分されていた紀元前129年に舞台を設定し、尊敬する政治家小スキピオによる対話篇として『国家について』を記述しました。これはプラトンが師ソクラテスを主人公として記述した対話篇『国家』を想起させるものです。


2.キケロの思想ーー混合政体 

『国家について』で、キケロは、国家が支配者の数によって、王政、貴族政、民主政の3つの形態に分けられると述べます。このあたりはアリストテレスの分類に似ています。

国政の全権が一人の者にあるとき、わたしたちはその一人の者を王と呼び、その国家の政体を王政と名づける。それが選ばれた市民にあるとき、その国は貴族の裁量によって治められると言われる。しかし、国民に全権がある国は、民主国である。(第1巻第26章)


キケロは、この中で1つ選ぶとすれば王制が最も優れていると述べます。キケロは、たくさんの使用人がいるとき、誰か1人を責任者とし、他の使用人はその1人の責任者に従うようにさせるのが最も効率的である、という例を挙げた上で、国家においても、命令権は一人に集中されている方が最も効率的であると述べます。

もし単一のものを一つ選ぶなら、わたしは王政を是認するだろう(第1巻第35章)

国家においても同様に一人の者による支配が、公正であるかぎり、最善であることをなぜあなたは認めないのですか。(第1巻第39章)


しかし、最善の王政といえども、国王が不正に転じることがあるといいます。キケロはローマの第7代目の王であったタルクイニウス王が国民に圧政を敷いた例をあげながら、不正な国王が僭主になる危険性を指摘します。

一人の者の意志あるいは性格にかかっている国民の運命は脆いのである。(第2巻第28章)


このような危険性は王政に限らず、貴族政、民主政においても、支配者が悪に転じる危険性があると述べます。そして、このような悪政に転じない安定性をもった最善の国家とは、王政、貴族政、民主政を混ぜ合わせた形態だと述べるのです。

わたしは最初に述べたこれら三つのものから適度に混ぜ合わされた、いわゆる第四の種類の国家がもっとも是認すべき政体だと考える。(第1巻第29章)


3.ローマの歴史

このような混合政体の重要性についてキケロはローマ建国の歴史をたどりながら説明を試みます。


ローマを建国した初代ロムルス王は、国王として国家を統率しつつ、他方で卓越した人々=長老たちを集めた審議会の権威を重んじながら治世を行いました。この審議会は後に元老院と呼ばれるようになります。

これを定めたときはじめて彼(ロムルス)は、・・・国は卓越した各人の権威が王の絶対的権力に加味されるなら、一人の支配、つまり王権によっていっそう正しく導かれ治められることを発見し、これがよいと判断した。(第2巻第9章)


ロムルス王の死後、国民は王を求め、隣国で徳が高いと評判のあったヌマ・ポンピリウスを王として招きます。ヌマは就任にあたり、まず次のようなことを行いました。

彼(ヌマ)はここへ来たとき、国民が彼をクーリア民会において王に任命していたにもかかわらず、みずから自己の命令権についてクーリア民会で承認されるべき法律を提出した。(第2巻第14章)


ヌマ王は、国民から請われて来ているにもかかわらず、自らが王として発する命令の根拠を国民に求めたのです。これがローマ国王就任の際の慣例となっていきます。


時代は下り、第7代タルクイニウス・スペルブス王は圧政を行います。彼はそのために追放され、ローマの王制は廃止されます。その後、最初の執政官に任じられたプブリウス・ウァレリウス・プブリコラは、死刑等の判決を受けた際に、民会への上訴を可能とする法律を制定するなど、国民の自由を拡大したとされます。

こうして元老院は、その時代において国家を次の状態に保った。すなわち、自由な国民のもとにおいてわずかの事柄が国民によって、ほとんどが元老院の権威と制度と慣習によって実行された。また執政官は、期間では一年間限りの、しかしその性格および権利自体において王のごとき権限をもった。・・・しかしすべては、国民の同意により、指導者たちの最高の権威のもとに置かれた。(第2巻第32章)

権利と義務と任務の等しい釣合いが国に存在し、こうして十分な権限が政務官たちに、十分な権威が指導者たちの審議に、十分な自由が国民にあるのでなければ、国家のこの政体は不変に保つことができないのである。(第2巻第33章)


このように、キケロは、執政官、元老院、民会の3つが組み合わさったローマの政治形態が最善のものであると結論づけます。

 

4.感想

キケロによる国政の分類(王制、貴族制、民主制とそれぞれの堕落した形態)は明らかにアリストテレスの影響を受けていますし、本文中ではプラトンへの言及もしばしば見られます。キケロはプラトンやアリストテレスといったギリシャ政治学の理論を受け継ぎつつも、自らの政治家としての経験や自国の歴史も踏まえた上で自らの思想を展開しており、まさに理論と実践を統合した人物と言えます。

アリストテレス『政治学』

アリストテレス『政治学』を読みました。以前ご紹介したプラトン『国家』の後に読んだことで、私なりに面白いと感じたことがいろいろとありましたのでご紹介します。


プラトンとアリストテレスを読み比べて一番面白いと感じたのは、国家を誰が運営すべきかという考え方の違いです。プラトンはごく限られた優秀な哲学者のみが、大衆の意見に惑わされることなく、唯一の真理に基づいて国政に携わるべきだと考えました。


これに対し、アリストテレスは、幅広い大衆が国政に参与することの重要性を説きました。私なりの解釈にはなりますが、大衆の市民参画が必要となる理由として、市民の政治参画による国家の安定、国家は市民のためにあるという国家設立のそもそもの目的、感情に左右されない客観的な統治ということが挙げられるのではないかと思います。


以下にて一つずつご紹介したいと思います。

 


1.プラトン『国家』との比較

1-1 プラトンの思想ー哲学者(優秀者)による支配

プラトン『国家』においては、真理、すなわち善のイデアを認識しうる真の哲学者こそが、国家の守護者として政治を行うべきであることが述べられました。それは、有名な以下のフレーズで述べられています。

哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり・・・あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、・・・国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。(『国家』第5巻)  


プラトンは、哲学者を生まれながらの素質と長い間の鍛錬によって真理を認識できるに至った人と考えます。そして、真理とは、多数決で決められるようなものではなく、人々の考えとは無関係に客観的に存在するものだと捉えました。その上で、多数の人が述べる意見こそが正しいものだと説くソフィストたちを以下のように非難します。

 彼(=ソフィスト)はこれを『知恵』と呼び 、ひとつの技術のかたちにまとめ上げたうえで、それを教えることへと向かうのだ 。その動物(=大衆)が考えたり欲したりする、そういったさまざまのもののうち、何が〈美〉であり〈醜〉であるか 、何が〈善〉であり〈悪〉であるか、何が〈正〉であり〈不正〉であるかについて、真実には何ひとつ知りもせずにね。こうした呼び方のすべてを、彼はその巨大な動物の考えに合わせて用いるのだ。つまり、その動物が喜ぶものを『善いもの』と呼び、その動物が嫌うものを『悪いもの』と呼んで、ほかにはそれらについて何ひとつ根拠をもっていない。(『国家』第6巻)  

 
このように、プラトンは大衆の考えには価値を認めておらず、ごく限られた優秀な哲学者が、大衆の意見を考慮することなく、真理に基づいて政治を行うことを理想と考えました。


1-2 アリストテレスの思想ー大衆の政治参画

これに対しアリストテレスは、大衆の判断力に信頼を寄せています。アリストテレスは、大衆の一人一人は決して優秀ではなかったとしても、多数が集まることで一人の優秀者をしのぐことができると述べます。

多数者は、その一人一人はりっぱな人とはいえないにしても、集まれば少数の優秀者にまさるかもしれない、一人一人別々ではそうでなくても、全体としてはその可能性はありうるわけである。それはちょうど大勢が各自費用を負担しあった食事のほうが、一人の出費でまかなわれた食事よりはよいことがあるようなものだ。多数の人間がいれば、その一人一人は徳と思慮をいくぶんかは分有しうるし、それにみんながいっしょになれば、その集団は、多くの手足や多くの感覚をそなえた一人の人間のごとくになるように、性格や思考の面でもこれと同様のことがいえるだろうからである(第3巻第11章)

 
さらに、アリストテレスは、大衆が政治に参画することに否定的な意見があることも認めつつ、それでもなお、国民議会(民会)や裁判を通じて大衆が政治に参画すべきだと述べます。

たしかにかれらが国の最高の役職に参与するのは危険なことである。かれらには不正なところもあり、無思慮なところもあるから、あるいは不正を犯し、あるいは過ちを犯すことを免れえぬことだろうから。さりとて他方また、かれらをそうした国家統治の要職にいささかもあずからせない、参与をまったく許さないというのも危険といわなければならないだろう。「国事担当の栄職からしめ出された者」、そして貧乏な暮しをしている者がその国のなかにたくさんいる場合にはいつも、その国にはかならず敵がみちあふれているにちがいないから。とすると、残されたもう一つの場合としては、かれらには審議と裁判の役目を割りあてればよいわけである。(中略)事実かれらはみなが集まって一つになれば、充分な識別力を持つことになるし、またよりよい階層の人々といっしょになれば、国のためにもなりうるわけである・・・(第3巻第11章)

 
なお、アリストテレスが述べる「大衆」には、当時いた奴隷はもちろんのこと、日々あくせく働く職人や農民は除かれるなど、現代の我々が考える「大衆」よりはかなり範囲が狭いことには注意が必要です。

 
2.国家の安定

2ー1 市民の政治参画

上記引用した部分において、アリストテレスは、仮に大衆に政治参画を許さず「国事担当の栄職からしめ出された者」が多くなると、国に「敵がみちあふれて」しまうと述べます。これはどういうことでしょうか。


アリストテレスは、政治参画が名誉なことなので、市民からその機会を奪ってはいけないと考えます。

ではしかるべき徳をそなえた何人かの人々が治者となり、あらゆることの最高の権限をもつべきか。しかしそうなるとどうしても、それ以外のすべての人たちは、国事担当の役職につく名誉にあずかれないので、「名誉を奪われた者」ということになるだろう。というのは、公職とは名誉ある役職であるとわれわれはいうのであり、もし同じ人々がいつまでも公職についているとすると、残りの人たちは「名誉を奪われた者」ということにならざるをえないのだから。(第3巻第10章) 

 
上記引用において「しかるべき徳をそなえた何人かの人々」とは、まさにプラトンのいう真の哲学者のことを指しているように私には思えます。そして、プラトンの哲人統治思想を実現してしまっては、政治参画という名誉を市民から奪うことになってしまうと指摘し、市民の広い層に政治参画を認めるべきだと主張しているのです。

 
2ー2 国家の安定

 それでは、市民から政治参画の機会が奪われればどうなるのでしょうか。アリストテレスは、政治から疎外された層が国家の中に多くなると、不満が蓄積し国家が分裂してしまうと考えているようです。 

すべての国家体制について一般にあてはまる同じ原則を立てなければならない。つまりそれは、国家体制の存続を希望するもののほうが、それを欲しないものよりも国内の強力な部分をなしていなければならない、ということである。(第4巻第12章)  

 

ちなみに、アリストテレスの倫理観では、中庸が最善であるとされます。国家においても同様に、中間層が力を持つことで、いずれか一方に傾くことなく、国家の分裂・崩壊を防ぐことができると述べています。 

さておよそどの国家にも、国家の三つの部分があり、それは非常に裕福な人々と非常に貧しい人々と、第三にそれらの中間の人々である。・・・(中略)・・・国家共同体でも中間的な人々によって支配されているものが最善であり、またよい政治が行われる国家というのは、そこにおいては中間的な部分が多数であって、できれば両極端のいずれかよりも強力であるか、それがだめなら、どちらか一方よりは強力であるというような国家だ、ということは明らかである。それはかれらがどちらか一方の側につくことによって、秤はそちらへ下がって形勢は決まり、両派があまりに極端に対立することになるのを妨げるからである。(第4巻第11章)  

 
ここでも、やはりアリストテレスは、市民の政治参画をできる限り幅広い層(ここでは特に中間層)に認めることで、国家の分裂を回避すべきだと考えていることが分かります。

 
3.国家統治の目的

 大衆の判断力を信頼していたアリストテレスは、以下ご紹介する部分では、大衆の政治参画が国家の存在意義にも合致すると考えていたと読み取ることができます。

 
3ー1 国家の目的

アリストテレスは、国家の起源を家族だと考えます。人間がもともと自らの生存を安全にするために作った家族が分化し、多数集まることでやがて国家になるとの考えです。つまり、人間が国家を作るのは、自然の摂理にかなった必然的なものですから、その意味で人間は「ポリス的動物」(第1巻第2章)であるのだと規定します。


そうすると、国家というのは個々人のために作られたものですから、支配者の利益だけでなく全体の利益(公共の利益)を考えなければなりません。 

(各人にとっての)よき生活ということこそ共同体全体にとっても個人個人にとっても最終目的であることに間違いはない。(中略)以上のことからして明らかに、公共の利益をあくまでも考える国制こそは、まさしく絶対的な正義の規準にかなった正しい国制であり、これに反して支配者自身の利益のみをおもんぱかる国制はすべて間違った国制で、正しい国制から逸脱して邪道にそれた国制である。(第3巻第6章)  

 
3ー2 よき生活=徳

 では、アリストテレスの言うよき生活とはどういうものでしょうか。
アリストテレスは善には、富などの外部的な善と、健康などの身体の善と、精神の善(=徳)の3つがあり、その中でも精神の善、すなわち徳が最も重要と述べます。そして、徳をともなった生活として望ましいのは、市民国家の一員として国政に参加する生活だと述べます。 

公の国家全体にとっても、おのおのの個人にとっても、行動的生活が最善の生活だということになるだろう。(第7巻第3章)   

 

つまり、よい国家とは、多くの市民に幸福な生活を与えることができる国家であり、そのためには、市民に広く政治参画の機会を与えることが必要となるのです。 

最善の国制とは、それによってどんな人でも、最善の活動と幸福な生活できるような秩序でなければならないということは明らかである。(第7巻第2章)   

 
4.法治主義と客観的な裁定

 また、アリストテレスは正しく制定された法律によって統治が行われるべきであるという、法治主義の考えも展開しました。 

正しく制定された法律こそが最高の権限をもつべきであって、治者は、一人であると多数であるとを問わず、法律が厳密に規定することがどうしても不可能なことがらについてのみ--個々一々のことがらをすべて通則でこまかく決めることは容易ではないため--権限をもつべきである(第3巻第11章)   

 
アリストテレスは、支配層が1人、少数、あるいは多数のいずれであろうとも、正しく制定された法律によって、感情に左右されない客観的な判断が下されることが重要だと述べています。 

感情という要素がまったく付け加わっていないもののほうが、生まれつきそれとの結びつきがあるものよりもまさっている。しかるにこの感情的な要素は法律にはないものであるが、人間の魂はみな必ずこれをもっているはずである。(第3巻第15章)   

 

それでは、法律が想定しない個別事案が発生した場合、どのように対処すべきなのでしょうか。アリストテレスは、そのような裁定の場面において、一人や少数者による判断は感情に左右されやすく、大衆が裁定の権限をもつべきだと主張します。 

他方なんにせよ法律がまったく裁定できないか、または適切に裁定できないようなことがあるとしたら、そのようなことについて裁定しなければならないのはただ一人の最善のひとだろうか、それとも市民全体だろうか。・・・(中略)・・・多量のもののほうが損なわれにくいーーそれは多量の水が少量の水より汚染されにくいのとちょうど同じで、大衆も少数者より悪に染まりにくい。また一人のひとが、怒りやその他なにかその種の激情にかられると判断が損なわれざるをえないが、かたや、すべての人が同時に怒りにかられ、あやまちを犯すなどというのは、めったにありえないのである。(第3巻第15章) 

 
このように、客観的に政治を行うべきとする法治主義の考え方からも、大衆の政治参加は有用だということが言えます。

 
5.余談:三権分立

なお、余談になりますが、1.で引用した部分で、アリストテレスは大衆には「審議と裁判の役目を割りあて」るべきだと述べています。実は、アリストテレスは、この時点で既に、現代の立法、行政、司法に似た国家の3つの機関を明確に区別して認識しています。 

すべての国家体制には三つの部分があるが、すぐれた立法家はそれらに関連して、それぞれの国家体制にとって利益になることを考えなければならない。・・・(中略)・・・これら三つのうち一つは、公共の問題について審議にあたるの(=議会)はどんなものかということであり、第二は国家統治の役職(=行政)に関するもので、つまりその役職がどんなものでなければならず、またどういうことを管轄すべきであるか、そしてそれにつく人の選出はどういうふうに行われるべきかであり、第三は裁判をするのがどんなものか、ということである。(第4巻第14章)   

 
審議と裁判はどちらも大衆参加としているので、三権を分立させると主張しているわけではありませんが、既にこの時代に国家作用を3つの要素に分けて検討していることは注目に値するものです。


6.まとめ

いろいろ述べてきましたが、冒頭でもお伝えしたように、アリストテレスはプラトンの哲人統治思想に対し、大衆の政治参画という観点から反論をつきつけました。ここでは紹介できませんでしたが、アリストテレスは、アテネのみならず、当時の幅広い国家の統治形態を例に挙げながら主張を展開しており、さまざまな事例を比較検討した上で現実的な議論を展開したものと考えられます。その意味で、理想から議論を展開したプラトンと明確なコントラストを描いており、この両者の存在が後世にまで大きな影響を与えた意味を感じることができました。

 
(なお、上記でご紹介した引用したのうち、プラトン『国家』は岩波文庫(藤沢令夫訳)、アリストテレス『政治学』は中公クラシックス(田中美知太郎ほか訳)によるものです。)

プラトン『国家』における政治思想

プラトンの『国家』は、多数あるプラトン著作の中でも非常に長く、内容的にみても重要とされ、プラトンの主著中の主著(藤沢令夫氏)とされています。舞台は紀元前375年頃(推定)、筆者プラトンの師であるソクラテスが友人たちとの議論を通じて、正義について思索を深めていくという内容です。

ん!?  正義!?  『国家』というタイトルがついてるのに、議論のきっかけは、政治思想ではなくて倫理学なんです。実は『国家』の主題は、国家についてなのか、それとも正義についてなのか、ということは既に古代ローマ時代には議論されていたようです。さらに、それだけではなく、この本には認識論(イデア論)や教育論など非常に多岐にわたる分野の議論が展開されます。

その全てについて簡単な感想なりとも述べるのは私にはとても手に負えそうにないので、今回は政治思想に関する部分について私なりの概要をまとめてみたいと思います。

 

1.法律の起源

まず冒頭の場面において、ソクラテスが正義や国家について本格的な思索を始める前に、グラウコンという人物がソクラテスに対し面白いことを語ります。

グラウコンは、お互いの不正を防ぐ手段が正義であり、それに基づいて生まれたのが法律であると述べます。彼によれば、他人に不正をなすほうが、他人に正義を貫くよりも得られる利益が大きいとされます。しかし、他人から不正を受けた場合、それ以上に大きな損害を被ってしまいます。常に他人に対し優位に立てる人間は別ですが、普通の人の場合、不正を加えたり加えられたりの繰り返しとなるよりは、お互いに不正を加えることを差し控えるほうが最終的には有利になります。そこで、不正をなくすよう人々がお互いに契約を結んだのが法律の始まりであるというのです。

この部分、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」という考えとも通じるのではないかと思いました。紀元前のギリシャで既にこのような高度な思索が行われていたのには驚きを禁じ得ません。

ちなみにグラウコンはプラトンの実の兄なのですが、グラウコンに託してプラトンは当時世間で考えられていた思想を述べたと考えられます。しかし、プラトン自身は不正のほうが利益になるという考えに賛同できず、この考えは論駁されていきます。

 

2.国家の成立と分業

プラトンは(登場人物のソクラテスに託して。以下同じ。)国家の成り立ちから思索を始めます。プラトンによれば、そもそも国家がなぜ必要となるかといえば、それは一人ひとりの人間では自給自足ができないからです。つまり、分業による効率化こそが国家成立の起源ということです。

分業によってなぜ効率化するのか。現代の我々からすれば、それぞれの仕事に専念できるからと考えるのが自然なように思われます。プラトンもその点については認めています。しかし、プラトンにとっては、一人ひとりの素質の違いということの方が、分業の理由としてより大きな問題と捉えられます。

プラトンによれば、人は、農業に向いている人、大工に向いている人、織物工に向いている人など、それぞれに向き不向きがあるとし、それぞれが向いている仕事をすることこそが重要と考えました。

分業のために誕生した国家は、当初は衣食住に必要な最低限のものしか生産しません。しかし、人々の欲求に応じ、やがて贅沢品なども必要となってくると、その生産のために国家の領土・勢力を拡大する必要が生じてきます。国家が大きくなれば、他の国家との間に戦争が起こります。すると軍人が必要となります。

当時のギリシャでは、戦時には市民全員が武装して戦地に赴くこととされていましたが、プラトンは軍人こそ素質のある人が務めなければならないと主張します。そして、軍人や支配者を守護者と呼び、これら守護者にとって必要な生まれつきの素質や、彼らに対する若年期の教育方法を説きます。そのような素質を持ち、教育を受けた者の中から、節目節目に厳しい基準でさらに選別が行われ、国家の守護者となるべきものが選ばれると述べます。

 

3.素質と金・銀・銅・鉄の物語

この守護者は他のどの職業よりも重要であり、国家の中でも最も優秀なものが就かなければならないとされるのですが、プラトンはこの思想を国民に浸透させるために次のようなフィクションの物語を語ります。

人が生まれ、教育を受けて成長していく過程で、神は、ある者には金を、ある者には銀を、ある者には銅や鉄を混ぜ合わせて、それぞれの人を形作っていくという物語です。金が混ぜ合わされた者は守護者に、銀が混ぜ合わされた者は守護者を補助する補助者に、銅や鉄が混ぜ合わされた者は農夫や職人になる能力をそれぞれが持つこととなります。

素質によって就くべき職業が決まってしまうというのは、現代からみれば差別的な考え方にも思えますが、この時代の考えからするとある程度は仕方ないのかもしれません。ただ、素質が家系によって決められるのではないというところは着目すべき点だと思います。つまり、金の親から生まれるのは必ずしも金の子どもとは限らないし、鉄や銅の親から金の子どもが生まれることもあるとされるのです。

そして、それぞれの階層の国民が、他の階層へ介入することなく、それぞれ与えられた仕事をこなすことこそが正義だとプラトンは述べます。金の人間が順当に国家を支配するのであればよいのですが、銅・鉄の人間が支配者の地位に就く時、その国家は滅びるとされます。 

 

4.私有財産の禁止

このようにして、しかるべき人物が守護者となるのが理想的な国家だと規定されます。しかし、国民を守るはずの守護者が国民に牙を向けるようなことがあってはいけません。そのために、プラトンは守護者たちに厳しい条件を課します。

なんと、支配者は私有財産を禁止されるのです。彼らの住居は国民に公開されていつでも誰でも立入れるようにしなければならず、給与は暮らしの糧に過不足ない分だけをもらい、食事は共同食事をとることとされました。

プラトンはさらに大胆な思想を展開します。プラトンは、国民全体で苦楽を共有することが、国家を一つにまとめるために重要だと説きます。ところで、人々の苦楽の最たるものは家族です。そこで、プラトンは、守護者たちの間で妻子を共有するという大胆な提案を行います。生まれた子どもはすぐに親から引き離され、どの子どもが誰の子かは分からなくなります。そうすることで、同じ年代の子たちはみな兄弟、年の離れた者は自分の親または子どもであるように感じることとなり、苦楽が共有されることになるというのです。しかも、劣った子や障害児は秘密裏のうちに捨てられ、優秀な子だけが育てられるとさえ述べられます。

こんな生活で守護者は果たして満足できるのでしょうか。まさにその質問を登場人物であるアデイマントスが尋ねます。これに対しプラトンは、支配者だけを幸福にする必要はなく、全体を幸福にすることこそが重要であると主張します。また、守護者たちも、国家を守るという栄誉を受けるのだから、決して不幸でもないのだと述べます。

 

5.哲人統治

以上のようなことを述べた後、プラトンは哲人統治について述べます。まさにプラトン政治思想のクライマックスです。

哲学者が国の統治者となるか、あるいは国の統治者が哲学を学ぶかのいずれかを実現すべき、というごく単純なものですが、その理論的根拠の説明にプラトンは労力を重ねます。

当時(今も?)、哲学者に対する世間の偏見は強く、浮世離れした哲学者が国の統治に関わるなんてとんでもないとの風潮があったようです。訳者、藤沢氏の解説によれば、この説明のために必要となった考え方こそが、イデア論とされます。

イデア論とは、この世には恒常不変のもの(イデア)があり、哲学を通じてのみそれに触れることができるのだ、という考え方です。例えば、美しいものには善のイデアが、善いものには善のイデアが存在するとされます。何が美しいかは、人々の評価によるのではなく、美のイデアという客観的なものによるものであり、美のイデアを認識できるか否かで、何が美しいか判断できるということです。

このようにして、善のイデアを認識できる人物こそが哲学者であり、そのような人物こそ、法律を作ったり国家を守護するのに最も適しているというのがプラトンの考えです。

プラトンはこのことをより深く説明するために、有名な洞窟の比喩について述べます。プラトンによれば、この世の人間は洞窟の奥深くで手足を縛られた人々に似ているとされます。これらの人々は洞窟の奥を向いていて、別の方向に向き直すこともできません。時折、彼らの後ろでいろんな物が運ばれるのですが、彼らはその物が壁面に映しだす影しか見ることができません。生まれつきそうして育ってきた彼らにとっては、その影こそが真理だと信じきっています。

ある時、彼らの内の一人が縛を解かれ、洞窟の外に連れて行かれます。洞窟の薄暗がりしか経験したことのない彼にとって、太陽の光は痛みを伴うほど眩しく、苦痛以外のなにものでもありません。しかし、次第に目が慣れてくるにつれ、彼は、これまで見てきた影ではなく、物そのものの姿(イデア)こそが真実だと悟ります。

このようにして真実を知った者は、また元の洞窟に戻って仲間たちに世界の真の姿を伝える必要があるとプラトンは説きます。太陽の下に広がる美しい世界を知った者が、元の暗い洞窟に戻るのは、これまた苦痛でしょう。しかし、自分を太陽の元に届けてくれたものこそ、プラトンが建設した理想国家における教育なのであり、その恩恵を受けて哲学者となった者は、その能力を国家に還元する必要があるのです。

こうして、子どもの頃から厳しい教育と選抜を受けた守護者たちは、交代で政務につき、そうでない時は哲学をして過ごすというのが、プラトンの考える哲人統治下の国家なのです。

 

6.それ以外の国制

プラトンはこうしてできた国家を、優秀者支配制とも呼びました。また、世界には、この優秀者支配制の他にも、名誉支配制、寡頭制、民主制、僭主独裁制という4つの形態の国制があると述べます。

優秀者支配制は一点の曇りもない理想的な国家なのですが、宇宙の周期の乱れにより、やがてなんらかの形でほころびが生じます。

やがて人々は哲学を尊重することがなくなり、知恵よりも軍人的な名誉を重んじるようになると、哲学者に代わって軍人が支配者層につくこととなります。これが名誉支配制です。ただし、支配者層や重んじられる価値観が変わっただけで、支配者の私有財産禁止など、大きな枠組みは優秀者支配制と共通しています。

名誉支配制が腐敗してくると、今度は財産を持った者が台頭してきます。これが寡頭制です。プラトンの言う寡頭制とは、支配者が少ないという意味ではなく、財産家による支配ということを意味しています。この国制では金儲けが重要な価値観とされ、国の枠組みも当初からは大きく変わっています。

寡頭制では、能力がなくても財産があれば支配者の地位につくことができます。他方、富者と貧者の利害は対立し、多数の貧しい民衆の不満が蓄積されていきます。ここで民衆が力をつけていくことで、寡頭制はやがて民主制に移行することとなります。

民主制では自由が重んじられ、人々の生活は多種多様となっていきます。プラトン自身、「この国制を最も美しい国制であると判定する人々も、さぞ多いことだろう」と認めます。しかし、プラトンによれば、この国制下では国民の魂が敏感になり、ちょっとしたことにすぐ腹を立てるようになってしまいます。異なる意見の者は批判し、自分たちを守ってくれる者に人気が集まります。そうして、やがて僭主と呼ばれる民衆指導者が民衆を巧みに騙し、権力を握ってしまいます。これが僭主独裁制です。

僭主独裁制では、国民は隷属させられますが、実は僭主自身も隷属の地位に置かれることとなります。僭主は国民の人気に基づいて権力を得ているので、国民の支持を失ってしまえば、支配者の地位を追われ、財産や生命さえも奪われかねません。そのような状況下では、僭主は常に国民に媚びへつらわなければならないのです。

以上から、プラトンの国制の分類は、重んじる価値観が、知恵、名誉、財産、自由、隷属によって分類されるものであり、この順番に堕落していくということを示したものなのです。

 

7.感想

プラトンの言いたいことを私なりに解釈すると、要は真実を把握できる人間が統治に当たるべきだ、ということだと思います。そして、真実は目に見えないものであり、人間には哲学という方法を用いて推し量るしかないのです。

これは、現代においても真理なのではないかと思います。例えば、経済の動きというのは、物理的な意味において、目に見えるものではありませんが、統計データや経済理論によって、現状を把握し、将来を見通すことができます。このように、学問の力によって、目に見えない真理を知ることこそが重要であるとプラトンは言いたかったのではないかと思います。