プラトン『国家』における政治思想

プラトンの『国家』は、多数あるプラトン著作の中でも非常に長く、内容的にみても重要とされ、プラトンの主著中の主著(藤沢令夫氏)とされています。舞台は紀元前375年頃(推定)、筆者プラトンの師であるソクラテスが友人たちとの議論を通じて、正義について思索を深めていくという内容です。

ん!?  正義!?  『国家』というタイトルがついてるのに、議論のきっかけは、政治思想ではなくて倫理学なんです。実は『国家』の主題は、国家についてなのか、それとも正義についてなのか、ということは既に古代ローマ時代には議論されていたようです。さらに、それだけではなく、この本には認識論(イデア論)や教育論など非常に多岐にわたる分野の議論が展開されます。

その全てについて簡単な感想なりとも述べるのは私にはとても手に負えそうにないので、今回は政治思想に関する部分について私なりの概要をまとめてみたいと思います。

 

1.法律の起源

まず冒頭の場面において、ソクラテスが正義や国家について本格的な思索を始める前に、グラウコンという人物がソクラテスに対し面白いことを語ります。

グラウコンは、お互いの不正を防ぐ手段が正義であり、それに基づいて生まれたのが法律であると述べます。彼によれば、他人に不正をなすほうが、他人に正義を貫くよりも得られる利益が大きいとされます。しかし、他人から不正を受けた場合、それ以上に大きな損害を被ってしまいます。常に他人に対し優位に立てる人間は別ですが、普通の人の場合、不正を加えたり加えられたりの繰り返しとなるよりは、お互いに不正を加えることを差し控えるほうが最終的には有利になります。そこで、不正をなくすよう人々がお互いに契約を結んだのが法律の始まりであるというのです。

この部分、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」という考えとも通じるのではないかと思いました。紀元前のギリシャで既にこのような高度な思索が行われていたのには驚きを禁じ得ません。

ちなみにグラウコンはプラトンの実の兄なのですが、グラウコンに託してプラトンは当時世間で考えられていた思想を述べたと考えられます。しかし、プラトン自身は不正のほうが利益になるという考えに賛同できず、この考えは論駁されていきます。

 

2.国家の成立と分業

プラトンは(登場人物のソクラテスに託して。以下同じ。)国家の成り立ちから思索を始めます。プラトンによれば、そもそも国家がなぜ必要となるかといえば、それは一人ひとりの人間では自給自足ができないからです。つまり、分業による効率化こそが国家成立の起源ということです。

分業によってなぜ効率化するのか。現代の我々からすれば、それぞれの仕事に専念できるからと考えるのが自然なように思われます。プラトンもその点については認めています。しかし、プラトンにとっては、一人ひとりの素質の違いということの方が、分業の理由としてより大きな問題と捉えられます。

プラトンによれば、人は、農業に向いている人、大工に向いている人、織物工に向いている人など、それぞれに向き不向きがあるとし、それぞれが向いている仕事をすることこそが重要と考えました。

分業のために誕生した国家は、当初は衣食住に必要な最低限のものしか生産しません。しかし、人々の欲求に応じ、やがて贅沢品なども必要となってくると、その生産のために国家の領土・勢力を拡大する必要が生じてきます。国家が大きくなれば、他の国家との間に戦争が起こります。すると軍人が必要となります。

当時のギリシャでは、戦時には市民全員が武装して戦地に赴くこととされていましたが、プラトンは軍人こそ素質のある人が務めなければならないと主張します。そして、軍人や支配者を守護者と呼び、これら守護者にとって必要な生まれつきの素質や、彼らに対する若年期の教育方法を説きます。そのような素質を持ち、教育を受けた者の中から、節目節目に厳しい基準でさらに選別が行われ、国家の守護者となるべきものが選ばれると述べます。

 

3.素質と金・銀・銅・鉄の物語

この守護者は他のどの職業よりも重要であり、国家の中でも最も優秀なものが就かなければならないとされるのですが、プラトンはこの思想を国民に浸透させるために次のようなフィクションの物語を語ります。

人が生まれ、教育を受けて成長していく過程で、神は、ある者には金を、ある者には銀を、ある者には銅や鉄を混ぜ合わせて、それぞれの人を形作っていくという物語です。金が混ぜ合わされた者は守護者に、銀が混ぜ合わされた者は守護者を補助する補助者に、銅や鉄が混ぜ合わされた者は農夫や職人になる能力をそれぞれが持つこととなります。

素質によって就くべき職業が決まってしまうというのは、現代からみれば差別的な考え方にも思えますが、この時代の考えからするとある程度は仕方ないのかもしれません。ただ、素質が家系によって決められるのではないというところは着目すべき点だと思います。つまり、金の親から生まれるのは必ずしも金の子どもとは限らないし、鉄や銅の親から金の子どもが生まれることもあるとされるのです。

そして、それぞれの階層の国民が、他の階層へ介入することなく、それぞれ与えられた仕事をこなすことこそが正義だとプラトンは述べます。金の人間が順当に国家を支配するのであればよいのですが、銅・鉄の人間が支配者の地位に就く時、その国家は滅びるとされます。 

 

4.私有財産の禁止

このようにして、しかるべき人物が守護者となるのが理想的な国家だと規定されます。しかし、国民を守るはずの守護者が国民に牙を向けるようなことがあってはいけません。そのために、プラトンは守護者たちに厳しい条件を課します。

なんと、支配者は私有財産を禁止されるのです。彼らの住居は国民に公開されていつでも誰でも立入れるようにしなければならず、給与は暮らしの糧に過不足ない分だけをもらい、食事は共同食事をとることとされました。

プラトンはさらに大胆な思想を展開します。プラトンは、国民全体で苦楽を共有することが、国家を一つにまとめるために重要だと説きます。ところで、人々の苦楽の最たるものは家族です。そこで、プラトンは、守護者たちの間で妻子を共有するという大胆な提案を行います。生まれた子どもはすぐに親から引き離され、どの子どもが誰の子かは分からなくなります。そうすることで、同じ年代の子たちはみな兄弟、年の離れた者は自分の親または子どもであるように感じることとなり、苦楽が共有されることになるというのです。しかも、劣った子や障害児は秘密裏のうちに捨てられ、優秀な子だけが育てられるとさえ述べられます。

こんな生活で守護者は果たして満足できるのでしょうか。まさにその質問を登場人物であるアデイマントスが尋ねます。これに対しプラトンは、支配者だけを幸福にする必要はなく、全体を幸福にすることこそが重要であると主張します。また、守護者たちも、国家を守るという栄誉を受けるのだから、決して不幸でもないのだと述べます。

 

5.哲人統治

以上のようなことを述べた後、プラトンは哲人統治について述べます。まさにプラトン政治思想のクライマックスです。

哲学者が国の統治者となるか、あるいは国の統治者が哲学を学ぶかのいずれかを実現すべき、というごく単純なものですが、その理論的根拠の説明にプラトンは労力を重ねます。

当時(今も?)、哲学者に対する世間の偏見は強く、浮世離れした哲学者が国の統治に関わるなんてとんでもないとの風潮があったようです。訳者、藤沢氏の解説によれば、この説明のために必要となった考え方こそが、イデア論とされます。

イデア論とは、この世には恒常不変のもの(イデア)があり、哲学を通じてのみそれに触れることができるのだ、という考え方です。例えば、美しいものには善のイデアが、善いものには善のイデアが存在するとされます。何が美しいかは、人々の評価によるのではなく、美のイデアという客観的なものによるものであり、美のイデアを認識できるか否かで、何が美しいか判断できるということです。

このようにして、善のイデアを認識できる人物こそが哲学者であり、そのような人物こそ、法律を作ったり国家を守護するのに最も適しているというのがプラトンの考えです。

プラトンはこのことをより深く説明するために、有名な洞窟の比喩について述べます。プラトンによれば、この世の人間は洞窟の奥深くで手足を縛られた人々に似ているとされます。これらの人々は洞窟の奥を向いていて、別の方向に向き直すこともできません。時折、彼らの後ろでいろんな物が運ばれるのですが、彼らはその物が壁面に映しだす影しか見ることができません。生まれつきそうして育ってきた彼らにとっては、その影こそが真理だと信じきっています。

ある時、彼らの内の一人が縛を解かれ、洞窟の外に連れて行かれます。洞窟の薄暗がりしか経験したことのない彼にとって、太陽の光は痛みを伴うほど眩しく、苦痛以外のなにものでもありません。しかし、次第に目が慣れてくるにつれ、彼は、これまで見てきた影ではなく、物そのものの姿(イデア)こそが真実だと悟ります。

このようにして真実を知った者は、また元の洞窟に戻って仲間たちに世界の真の姿を伝える必要があるとプラトンは説きます。太陽の下に広がる美しい世界を知った者が、元の暗い洞窟に戻るのは、これまた苦痛でしょう。しかし、自分を太陽の元に届けてくれたものこそ、プラトンが建設した理想国家における教育なのであり、その恩恵を受けて哲学者となった者は、その能力を国家に還元する必要があるのです。

こうして、子どもの頃から厳しい教育と選抜を受けた守護者たちは、交代で政務につき、そうでない時は哲学をして過ごすというのが、プラトンの考える哲人統治下の国家なのです。

 

6.それ以外の国制

プラトンはこうしてできた国家を、優秀者支配制とも呼びました。また、世界には、この優秀者支配制の他にも、名誉支配制、寡頭制、民主制、僭主独裁制という4つの形態の国制があると述べます。

優秀者支配制は一点の曇りもない理想的な国家なのですが、宇宙の周期の乱れにより、やがてなんらかの形でほころびが生じます。

やがて人々は哲学を尊重することがなくなり、知恵よりも軍人的な名誉を重んじるようになると、哲学者に代わって軍人が支配者層につくこととなります。これが名誉支配制です。ただし、支配者層や重んじられる価値観が変わっただけで、支配者の私有財産禁止など、大きな枠組みは優秀者支配制と共通しています。

名誉支配制が腐敗してくると、今度は財産を持った者が台頭してきます。これが寡頭制です。プラトンの言う寡頭制とは、支配者が少ないという意味ではなく、財産家による支配ということを意味しています。この国制では金儲けが重要な価値観とされ、国の枠組みも当初からは大きく変わっています。

寡頭制では、能力がなくても財産があれば支配者の地位につくことができます。他方、富者と貧者の利害は対立し、多数の貧しい民衆の不満が蓄積されていきます。ここで民衆が力をつけていくことで、寡頭制はやがて民主制に移行することとなります。

民主制では自由が重んじられ、人々の生活は多種多様となっていきます。プラトン自身、「この国制を最も美しい国制であると判定する人々も、さぞ多いことだろう」と認めます。しかし、プラトンによれば、この国制下では国民の魂が敏感になり、ちょっとしたことにすぐ腹を立てるようになってしまいます。異なる意見の者は批判し、自分たちを守ってくれる者に人気が集まります。そうして、やがて僭主と呼ばれる民衆指導者が民衆を巧みに騙し、権力を握ってしまいます。これが僭主独裁制です。

僭主独裁制では、国民は隷属させられますが、実は僭主自身も隷属の地位に置かれることとなります。僭主は国民の人気に基づいて権力を得ているので、国民の支持を失ってしまえば、支配者の地位を追われ、財産や生命さえも奪われかねません。そのような状況下では、僭主は常に国民に媚びへつらわなければならないのです。

以上から、プラトンの国制の分類は、重んじる価値観が、知恵、名誉、財産、自由、隷属によって分類されるものであり、この順番に堕落していくということを示したものなのです。

 

7.感想

プラトンの言いたいことを私なりに解釈すると、要は真実を把握できる人間が統治に当たるべきだ、ということだと思います。そして、真実は目に見えないものであり、人間には哲学という方法を用いて推し量るしかないのです。

これは、現代においても真理なのではないかと思います。例えば、経済の動きというのは、物理的な意味において、目に見えるものではありませんが、統計データや経済理論によって、現状を把握し、将来を見通すことができます。このように、学問の力によって、目に見えない真理を知ることこそが重要であるとプラトンは言いたかったのではないかと思います。

 

プラトン『国家』第2巻(後半)〜第3巻

第2巻前半で、正義についての議論でグラウコンとアデイマントスに詰め寄られ、「個人の正義について考える前に、国家の正義について考えてみよう」という提案で難所を切り抜けたソクラテス。

第2巻後半からは、正義の国家とはどんなものか、について考えることとなります。

 

1.分業

まず、ソクラテスは最小の国家を想像します。ソクラテスは、衣食住に必要な最低限を揃えるためには、食べ物を作る農民、家を建てる大工、服を作る織物工、その他必要品を作る人の4〜5人がいれば最低限の国家が成り立つと述べます。

 

そして、農民なら農業、大工なら大工の仕事というように、それぞれが自分の仕事をこなす分業体制をとることで、国家が効率的になると説きます。非常に説得力ある主張です。

 

ただし、ソクラテスは分業が効率的になる理由として、各自が作業に集中できるということよりも、個々人に向き不向きがあるから、ということを重視します。ここが後々重要になってきます。

 

さらにソクラテスは国歌の規模をたんだんと大きくして考えていきます。農業をよりよく行うには農具が必要になり、その道具を作る人間が必要になります。その他にも食卓のおかずを増やしたり、ベッドなどの日用品を増やしたりしようとすると、それを生産する人が必要になり、それだけ領地も拡大する必要が生じます。

 

そうすると、やがて他国と領地の奪い合いとなり、戦争につながります。戦争のためには軍隊が必要となり、軍隊となって戦う軍人が必要となります。

 

2.正しい神話

ソクラテスは、この軍人たちを含む、国家の「守護者」が重要であり、独特の方法で幼少期から育成されなければならないと主張し、話題が守護者の育成方法に移ります。

 

面白いのはソクラテスがギリシャ神話を徹底的に批判するところです。ギリシャ神話では神々も多くの欠点を持っていて、神々が親子で争ったり、とてつもない方法で浮気したり、所構わず男女で交わったりして、現代の我々からみると、めちゃくちゃな展開が少なくありません。

 

しかし、それを当の古代ギリシャ人たるソクラテスが、こんな話を子どもたちが聞いたら真似してしまうと言って、こてんぱんにこき下ろすとは、ギリシャ人も我々と同じ感覚だったのかもしれません。

 

3.優生思想

この他にも、音楽は勇気を鼓舞するようなもの以外は禁止だとか、食事も素朴なものでないといけないとか、いろいろと提案をするのですが、中でもひどいのは、医術についての提案です。

 

ソクラテスは「生まれつき身体が弱く、病気が完治しないような患者は、治療の必要がなく、その子どもも産ませるべきでない」と述べ、「そのような患者は生きるに値しない」とまで言います。

 

さらに、少し先取りすると、第5巻で、ソクラテスは「優秀な男女同士はたくさん子どもをもうけるべきであり、劣った男女はあまり子どもを産むべきでない」とか、「劣った者の子どもや障害を持った子どもは秘密のうちに隠しさってしまえ」などということまで述べます。

 

これは現代からみたら人権侵害の極みとしか思えませんが、聞き役のグラウコンが何の異議も挟まずに同意していることから考えると、当時としては突飛な考えではなかったのかもしれません。

 

ちなみに、ソクラテス(プラトン『国家』の主人公としてのソクラテス)がここで主張したことを本当に実施した国があります。それは20世紀のナチス・ドイツです。ナチスはユダヤ人虐殺で有名ですが、迫害されたのはユダヤ人だけではありませんでした。病人や同性愛者、労働忌避者なども強制収容所での「処分」の対象となりました。

 

実際、プラトンの思想がナチスのイデオロギーの補強となっているという批判は第二次大戦当時もあったようです。

プラトン『国家』第2巻(前半)

プラトン『国家』第1巻では、正義とは何かについての議論でトラシュマコスを言い負かした(つもりの)ソクラテスですが、周りは彼をほってはくれませんでした。第2巻では、グラウコンとアデイマントスという2人の人物が、お前の議論は不十分だと言わんばかりに割って入る、というところから始まります。

 

注:前回もそうですが、下記にて「」で区切ってある部分は引用ではなく、私が主観的に要約したものです。

 

1.正義の起源(グラウコンの主張)

まずグラウコンが、ソクラテスにふっかけます。彼はこう主張します。「正義っていうのは、周りの評判とか名声のために仕方なくやらなきゃいけないもので、本当はみんなやりたくないんだよ」と。 

 

彼はさらに続けます。「そもそも、実際には、他人に対して不正を働いた方が、利益を得ることができる。しかし、逆に他人から不正なことをされると、損をしてしまう。だから、他人に対し不正を行わない代わりに、他人からも不正を受けないよう、お互いに契約を交わすようになった。これが法律であり、法律で決められた内容が正義なんだ。」

 

グラウコンのこの発言、まさに近世以降の社会契約論に通じるものがあるように感じます。17世紀の政治思想家トマス・ホッブズは、社会が存在しない状態では「万人の万人に対する闘争」が起こるため、人々は国家を作り、無差別な殺し合いが起きないようにしたと主張しました。

 

これと同じような考えが、ホッブズよりも2000年も前に考えられていたなんて、プラトン恐るべしです。(ちなみにプラトン『国家』は紀元前375年頃に書かれたと考えられているそうです。)

  

2.重要なのは周りからの評価(アデイマントスの主張 )

次にアデイマントスが加わります。彼は、正義そのものが重要なのではなく、周りや神々から正義の人と評価されることこそが重要なのではないかと主張します。

 

彼はこう主張します。「たとえ正義に従って生きていたとしても、周りから誤解されれば、ひどい仕打ちにもあう。他方、心の中身は悪者であっても、周りから正義の人だと思われていれば、地位や名誉を得ることができる。さらに言えば、本当は悪者であっても、神々にだって正義の人だと思われさえすれば、天国にも行けるんだ」と。

 

3.ソクラテスの反論

グラウコンとアデイマントスの議論は非常に強力で、ソクラテスも困り果ててしまいます。そして、考えあぐねた末、このように提案します。

 

「君らの議論にはすぐには反論できない。そこで、個人の正義について考える前に、国家の正義について考えみないか?ほら、小さいものより大きいものの方が遠くからでもよく見えるだろ?個人より国家の方が大きいから、国家の正義の方が分かりやすいはずだよ。」

 

なんだかよく分からない提案ですが、グラウコンもアデイマントスも同意して話が進んでいきます。こうして、かなり無理やりな展開ですが、ようやくタイトルどおり国家についての議論が始まります。

 

そしてここからは、正しい国家とは何か、という話題に入っていきます。

 

4.第1巻との違い

ちなみに、第2巻は第1巻とやや雰囲気が変わってきます。第1巻ではトラシュマコスが言いくるめられつつも納得せずにイライラする反応など、議論のやりとりが非常にリアルに描かれていました。


しかし、第2巻では、グラウコン、アデイマントスとも、合いの手を入れる暇もなく、それぞれ自論を延々と述べます。


このあとソクラテスが話す番になるのですが、今度は聞き役に回ったアデイマントスはひたすらソクラテスの言うことに「おっしゃるとおり」、「たしかに」、「なるほどそのとおり」など、ほとんどイエスマンと化してしまいます。


専門家がどう解釈しているか知りませんが、もしかしたら、第1巻は事実に基づく話、第2巻からはプラトンの想像に基づく話なのかもしれません。

 

第2巻はまだまだ続きますが今日はこんなところまで。

 

プラトン『国家』第1巻

プラトンの代表作『国家』第1巻の概要と感想です。

 

1.導入

祭のために出かけた旅行先で、ソクラテスはケパロスという老人の家に招かれます。

はじめ、ソクラテスは老人ケパロスと、より良い生き方について話し合っていましたが、話題はやがて、正義とは何かという大きなテーマに移っていきます。ところが、議論が白熱しかけてきたのに、老人ケパロスは、神様にお供え物をするから、あとはうちの若いのと議論してくれ、と退出してしまいます。

 

2.ポレマルコスとの議論

ケパロスに次ぐ2人目の議論相手がポレマルコス。彼は『それぞれの人に借りているものを返すのが、正しいことだ』という詩人シモニデスの言葉を引用します。

 

この時代、詩人の語る言葉というのは相当の権威があったそうです。ましてや、詩人の中でも特に高名(だったらしい)シモニデスの言うことなら、間違っていることなどなかろう、というのが前提になります。

 

ポレマルコスはシモニデスの言葉を文字通りのみには解釈しません。ポレマルコスは議論を拡張し、敵に対して攻撃することも、借りを返すことの一つだと言うのです。たしかに少年マンガでも、敵に対して「借りは返させてもらうぞ」といったセリフ、見覚えありますね。

 

これに対しソクラテスは、いろいろとへ理屈を並べて反論しつつ、誰かに害をなす(攻撃する)ことは正義ではないと主張します。音楽家は音楽の技術を用いて他人の音楽の才能をなくすことはできないし、馬術家は馬術を用いて他人の馬術の才能をなくすことはできないだろ、それと同じように、正義を持つ人は正義によって、他人の正義を損なうことはできないんだよ、と言い出すのです。

少なくとも私には論理がいろいろと飛躍しすぎの感が否めないのですが、2400年も前(日本は縄文時代)なので。

 

3.トラシュマコスとの議論

このソクラテスのへ理屈を聞いて、いてもたってもいられず、怒りだしたのがトラシュマコスです。へ理屈ばっかり言ってんじゃねえ、といいつつ議論に巻き込まれてしまいます。

 

トラシュマコスは『正しいこととは、強い者の利益』だと主張します。どういうことでしょうか。

 

彼の主張はつまりこうです。各国において、支配層は自らの利益になることを法律として規定し、それこそが正しいことだと主張します。つまり、支配層にとって利益となることこそが、どこの国においても正しいこととなるのだ、ということです。

 

トラシュマコスの主張は、世の中を斜に構えて見ている人には共感できるのではないでしょうか。少なくとも私にとってはとても説得力があるように思えました。

 

これに対し、ソクラテスは、(1)支配者が誤って自らに不利益となる法律を作ってしまったときはどうなるんだ?とか、(2)医術は人間の身体のためのものだし、馬丁の技術は馬のためのものなんだから、政治の支配は支配者じゃなくて支配される国民のためなんだよ、という理屈にならないへ理屈でやり込めようとします。

 

面白いのは、トラシュマコスがソクラテスの反論を聞いても、やられた、という感じを抱いておらず、イライラだけが募っている点。結局、ソクラテスの反論は論理的に見えながらも、飛躍している点が多く、その点がトラシュマコスにも(ソクラテスに反論はできないものの)無意識に感じられたのではないでしょうか。ただソクラテスだけが一人、勝利の気分を味わっているように思えるのは私だけでしょうか。

歴史を学ぶ意味

歴史を学ぶ意味

  なぜ歴史を学ぶ必要があるのか。疑問に思ったことはないでしょうか。国語は文章を正しく読解するために必要ですし、海外の方とのコミュニケーションを取るための英語も重要です。数学や物理、化学なども現代科学の基礎となっており、大学で理系に進むためには不可欠でしょう。他方で、世界史や日本史は何のために学ぶのでしょうか。もう十数年前に調べた話をふと思い出し書きたくなったので、ご紹介いたします。

*なお、以下の話は十数年前に調べたことを基にしていますので、現在の状況とは必ずしも一致しないことを申し添えます。

 

大学教育における歴史学の扱い

  私が通ったのは総合大学でしたが、文系の学生の中で歴史を専門的に学んでいるのは、文学部の中の歴史系学科に属するほんの一部の学生だけでした。文系の学部というと、文学部の他にも法学部や経済学部など様々な学部があります。そう考えると、歴史を大学に入っても活用しているのは、文系学生の中でもごく限られた数ということになります。世界史は全国の高校生の必修科目であるにもかかわらずです。

  大学に入ってこれほど歴史の利用頻度が低いのであれば、高校生にはむしろ法学や経済学といった、社会に出て役に立つような科目を教養として教えた方がいいのではないか、という思いを抱きました(まさに「公民」という科目がそれに当たるのでしょうが、大学の入試に適さないのか、少なくとも私は高校時代に「公民」をしっかり勉強した記憶はありません)。

 

流れをすっ飛ばすフランスの歴史教育

  「学校で歴史を学ぶことが当然」との前提が崩れていった私は、外国で歴史がどのように教えられているかに興味を持ちました。その頃、フランスでは高校で哲学が教えられていることを知り、「それほど人文系教育にこだわる国では、歴史はどのように教えられているのだろう」と思い、特にフランスのことについて調べることにしました。

  フランスの多くの高校で使われているアシェット社の教科書をアマゾンで取り寄せ、フランスから届くのを心待ちにしていたことを覚えています。1か月ほどしてようやく届いた教科書を一目見た私は、あることに非常に驚きました。その教科書の第1部が古代ギリシャ時代から始まっていたのです。何がすごいか分かりますでしょうか。日本の歴史教科書とは全然違うのです。だって、日本の世界史の教科書はアウストラロピテクスから始まりますから(笑)。類人猿の進化を辿るのが歴史に含まれるかという疑問はさておいても、フランスの教科書は古代エジプトやメソポタミア文明をすっ飛ばしていたのです。

  さらに、日本人ならギリシャの次はローマが来ると想像するところ、その教科書の第2部は「キリスト教の誕生」、第3部に至ってはいきなり12世紀まで飛んでしまうのです。カエサルやカール大帝はヨーロッパの英雄ではなかったのかと。

  これは私にとって、大きなパラダイムシフトでした。高校時代、「歴史は前後の流れが重要」と教師に言われていましたが、フランスの歴史教科書の記述方法はこれに真っ向から矛盾していました。

 

現代と対比するための歴史

  フランスの教科書の第1部は、古代ギリシャ全体ではなく、アテネの民主政という狭い範囲に特化していました。内容としても、アテネにおいて奴隷、女性、外国人の参政権が否定されていたことが、非常に詳細に示されており、現代の民主主義と対比させ、現代社会をよりよく理解させようとの意図が明らかです。

  さらに、教科書においては、文章による事実の記述ではなく、多数の歴史的文献、グラフ、写真といった史料が大きなウェイトを占め、史料をいかに適切に読み込むかといった点も重視されていました。

  日本では、前の時代の事件や社会情勢が次の時代にどのような影響を与えるかという、歴史の因果関係が重視されます。一方、フランスの歴史教科書では、歴史は現代社会を見つめ直すための道具として考えられているのです。

 

まとめ

  高校で歴史を履修している生徒の内、将来、歴史研究者になるのはごく一握りです。そんな高校生にとっては、初めから終わりまで漫然と歴史の流れを追っていくのではなく、一般社会に出た際に有しておくべき教養や、大学進学後の専門課程を学ぶ上での土台となるような知識を集中して得ることこそ重要だと感じます。先史時代の洞窟の壁画や、未だ決着が見られない邪馬台国の場所など、趣味として追求するには興味深いテーマかもしれませんが、もう少し現代社会を知る上で必要な知識に焦点を当ててもいいのではないでしょうか。

巨人の肩の上

面白い読み物、とはいえないまでも、読んで新しい発見ができるような文章を書こうと挑戦しては、何度も挫折してきた。人様に読ませるものは、他の誰もが考えつかなかった、全く新しいものでなくてはならない、という思いがあったのだが、今考えてみれば、そんなことはよほどの才能がなければ難しい。

 

かたや、ネット上には、数えきれないほどのサイトやブログが公開されていて、当然、その数だけ発信している人がいるのだが、別にそのサイトにしか書かれていない事実が常にある訳ではないと思う。例えば、「ファイアフォックスの動作を軽くする方法」と検索してみると、多くのサイトが出てくるが、見てみるとどのサイトも似たような解決策が並べられていたりする。でも、それが悪いという訳ではなく、コンピュータに疎い私としては、いくつかのサイトを見比べながら、解決策を試すことができ、とても助かった。

 

最初の理想が壮大すぎただけかもしれないが、記事がたとえ100%オリジナルでなくても、世の中の役に立つことはできると思う。ブログを読んで、「そんな当たり前のこと知ってるよ」という人がいたとしても、「そうだったのか」と思ってくれる人が少しでもいれば、その記事は世の中の役に立ったと言えるんじゃないか。そういうブログを、できれば定期的に書いていきたいと思う。

 

ブログタイトルの「巨人の肩の上に立つ小人」というのは、自分一人では小さな存在であっても、これまで積み重ねられた知識(=巨人)の上に立つことで、より遠くを見渡すことができる、という言葉だ。もちろん、この言葉を知っている人もたくさんいるだろうし、ウィキペディアにはもっと詳しいことが書かれているが、このブログも巨人(とはいかないまでも、その一部)のように、少しでも誰かの発見の役に立てればと思う。